弥生 三月

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弥生晦方(つごもりがた)の頃、かの媛御前(ひめごぜ)、更級(さらしな)(更科)の山どもの方はるばる見遣りたまひて、

  

「あな、嬉しな。吾(あ)が君、やむごとなき公達(きんだち)こそいざこなたざまへおはしませ」と念じたまひつつ、走る走る待ち出(い)でたまへるに、からうして思ひ人が御車(おほんくるま)、御(おほん)あるやう打ち入りたまへり。元までおはしたりて打ち鳴いたまへるは、今のまさかにぞはべる。

   

かやうに近う見(まみ)ゆるに、媛のいとど心ときめきする心地したまへる、言ふも更なり、さては、御まみのよろこぼひたまへるやう、今更めきたり。

   

◆胸走り更級の方(かた) 見遣るとは 君ならざれば たれに告げよと

【現代語訳】

三月も押し迫る頃、その媛君は、信濃国は千曲川の地の方角にある山々を遥か彼方に見遣りなさり、

「あぁ、嬉しいこと! この上なく大切な私のあなた様、さぁ、こちらにいらっしゃいませ!」と心の中で願いなさりながら、わくわくして出逢い待ちをなさっています。漸く、そのお方が運転する機関車、そのお姿が勢いよく駆け入りなさいました。媛君の側までいらっしゃった時に、汽笛を鳴らしなさいますのは今この時です。

こんなにも近くお目に掛かったので、一層わくわくと胸躍る媛君のお気持ちは今更申し上げるまでもありません。また、御目元が綻びなさるお喜びのご様子も、改めて申し上げるまでもないのです。

◆胸を高鳴らせて、山の彼方の更級の地を見遣るという事は、あなた様でなければ、その外(ほか)の一体誰に告げよというのでしょうか。

【参考】

・本書作者が撮影した写真を元にした創作。その写真は「結び」に掲載。

・かの媛御前~本書作者の事。作者が登場人物(自分)を第三人称で表して、書き手と登場人物を区別する物語的手法。自己を客観視する効果がある。

◆「更科」「更なり」「今更」は反復法。同一または類似の語句の繰り返しで、絵画的に印象を深める用法。