明治二八年に小夜子は満で一〇ないし一一歳ですから、ちょうど端境期にあたります。また教育に関する法律が当時どの程度遵守されたのかという問題もあるので、小夜子の高等女学校進学は少し幅を見て、明治二八年から三二年のことと考えておけばいいでしょう。
この時代、東京の高等女学校というと、官立(国立)の東京高等女学校か、府立の東京府女学校(現在の都立白鴎高校)か、いくつかの私立校しかありませんでした。いずれにせよ当時としては高学歴の女性だったのです。
高等女学校に学ぶことのできる女子は明治三八年(一九〇五年)ですら、日本全国で五パーセントに遠く及ばなかったのです。東京なら比率はもっと高かったでしょうが、明治二八~三二年頃に高等女学校に進学できた小夜子はきわめて恵まれた境遇にあったと言えます。
つまり、小夜子は庶子の身の上であるとはいえ、父が生きていた時代には家が裕福だったので、それなりの教育を受けることができたのです。
さらに、小夜子は家にいると家庭内がぎくしゃくする、といって寄宿させるとお金がかかり過ぎるということで、高等女学校は中退し、「赤坂辺の去(さ)る伝道学校(ミッションスクール)へ預けられた」のですが、そこで英語の学力が「著しく上達」します。(四章)
しかし父の死によってここも中退を余儀なくされ、やがて結婚して実家を離れるのですが、夫の若死ににより戻らざるを得なくなるのです。
この「赤坂辺の伝道学校」とはどの学校を指すのでしょうか。
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