第一章 日本近代文学の出発点に存在した学校と学歴――東京大学卒の坪内逍遙と東京外国語学校中退の二葉亭四迷

第二節 二葉亭四迷

■私立大学の位置

専門学校令はしかし同時に、私立校でも一定の基準を満たせば、その卒業生に無試験で中学教員免許を与えるとしていました。こうした特権はそれまでは官立や公立の学校にしか認められていなかったのです。

ただし、この特権は私立校でも中学を卒業した学生が学ぶ本科にしか認められませんでした。言い換えれば、私立校は中学を出ていない学生をも受け入れていたということです。

明治三七年の段階で、学生がほぼ中学卒業者のみという私立校は慶應と早稲田だけで、明治大学は四二パーセント、日本大学は三六パーセント、中央大学は一八パーセントに過ぎませんでした。経営上そうした措置をとらないとやっていけなかったのです。

そもそも、明治三〇年代になると中学進学熱が高まってくるのですが(この時代の義務教育は小学校のみであったことに注意しましょう)、中学校の数自体が不足していたという事情も要因の一つではありました。

しかし本来は中学卒業者のみを受け入れる建前なのにその基準を満たしていない私立校には、世間的な評価が低くなるというマイナス面がつきまとっていたのです。

明治三〇年代に出た『就学案内』という本には、「帝国大学、官立専門学校、早慶、五大私学(明治、中央、日本、法政、専修)」という序列がしっかりと記載されていたといいます。

ここで言う官立専門学校は、一部は戦前に大学に昇格し(東京商大〔現在の一橋大〕、東京工大など)、残りも戦後に国立大学になりました。明治時代だけでなく、戦前は官立(国立)が私立に対して圧倒的に優位と見られていたことは否定できません。

明治三七年の数字ですが、官公立専門学校の入試倍率が平均二・五倍だったのに対し、私立専門学校は一・一倍だったといいます。

大正期に第一高校から東京帝大に進み、やがて東大教授にしてドイツ文学者として有名になった手塚富雄は、一高に進学後、同郷(栃木県)出身で東京の専門学校に進んだ友人との関係が急速に消えていったと回想しつつ、以下のように述べています。

官立大学へのコースをとるということは、いわば知識階級の代表者として、多くの場合、特殊な少数者の階級に編入されるということと、ほとんど同じ意味をもつのであった。戦前の「官尊民卑」の実態がうかがえる回想です。