白寿の記憶
大正、昭和、平成と目まぐるしく変わる時代を何とか生き抜いてきた私。そうそう自己紹介をしましょう。私の名前は、今井敏子。今年春に、九十九歳になりました。
夫は、今井雄二。義母は今井さとですが、主人の実の母ではありません。さとの夫が病で亡くなったあと、夫の父と懇意であったことから、次男であった雄二の学費を全額持つということで、養子になったのです。つまり私は養子嫁ということになります。まあ、当時は家督を継ぐためにこのような養子縁組は少なくなかったようです。
百歳近くになると、多くの方は、年月とともにこれまでの嫌なこと、悲しかったこと、つらかったことなどは風化して、楽しいことのみ思い出すのではないでしょうか。また、すっかりぼけてしまっていれば、すべてを忘れ、心から平安でいられるのでしょう。私もそうなりたかった。
残念ながら私は、多少忘れっぽかったり、思い出せないことがあったりしますが、年相応以上にはぼけていないため、これまでのことは結構覚えています。そう、楽しかったことも悲しい出来事も、まるで昨日のことのように覚えているのです。
多少耳が遠いため、昔のように受け答えがすぐにできないときがありますので、他の方から見れば、ごくごく普通の幸せなおばあちゃんと思われているでしょう。
戦争さえなければ、そして、ほどほどにぼけていれば、この年になってまでこんな悲しい思いを背負っていなくてもよかったのに。皆さんには興味がないことかもしれませんが、しばらくお付き合いください。
昭和十八年、私達夫婦は初めての子どもを授かりました。結婚して六年目にやっとできた子です。戦争の影響が色濃くなってきた時代であるとともに、結婚以来、姑の冷たい仕打ちに悩まされた数年間でした。
食事中は、姑と主人のお代わりの相手に忙しく、あとで食べようと思っているうちに、お手伝いさんまでがさっさと食事を終わっており、おひつの中には、ご飯はもうほとんど残っていませんでした。
風邪で高熱が出ても、医者を呼んでくれるわけでもないので、ふらふらになりながらも一人で病院に行くことになります。それでも家事を代わってくれることなく、次から次へと仕事を頼んできます。
そのうえ家族全部の着物の縫い替えも私だけに押し付けてきました。お手伝いさんの中には仕立てがうまい人もいたのですが、その人の仕事を減らしてまで私に回してきたのです。こんな日々が続いていたからでしょうか。
ストレスでやせ細り、子どもができる健康状態ではありませんでしたから、まさかできるとは思っていませんでした。今でも、本当に奇跡的に授かったと思っています。