「流石、商いをなさる宗易様。ご存じのように船を安定させる為には、船底に重りが必要となります。その重りとしたのが焼物でございます。ですから日本に戻ったら殆ど捨てておりました。その中の物が、最近高値で売れる様になって来たのでございます」
「なるほど、船の重りに使った焼物から、茶道具に程よいものを見つけ出し、畿内で売っている訳ですね。それでは是非とも窯場に行ってみたいものです」
「色々ご案内致します」
府中で風待ちをし、宗易達は釜山に向かった。上対馬の北端、韓崎を過ぎるともう朝鮮が見え始める。影島を北に回り込んで船は釜山の浦に入ったのである。
正面に標高一三〇メートルの甑山(こしきやま)が海岸に迫っている。かつては富山と呼ばれたが、山の形が「釡」に似ている所からいつの頃からか「釜山」と書かれている。この頃は、倭館があるだけの閑散とした漁港であった。
「ここから八里(三二キロメートル)ほど西に、乃而浦という大きな湊がございます。二〇年前までは、一番大きな倭館がございまして、二五〇〇人程が暮らしておりました。その辺りが、昔から焼物が盛んで陶工が多い場所でございます。
しかし今は、許可なく船を近づけますと、倭寇とみなされます。手前にある加徳島より西には参れません。先ず今日は釜山倭館で休み、この北にございます『東莱府(トンネブ)』という役所に、明日参りましょう」
東莱府は、倭館から北に八キロほど山手にある新羅時代(八〜一〇世紀)の金井山城の麓にあった。この地は漢城(朝鮮国の首都、現在のソウル市)に通じる主要道を押さえる交通の要地であった。長官は都護として従三品(一八階級の第六位)の資格をもった上級官僚である。
都護には、特別な土産を十分に渡してある為、「五日間、乃而浦に停泊する許可証」を難なく貰う事が出来た。
「島井殿と千殿には、茶礼を致しますから拙宅にお移りください」
都護の両班屋敷に案内されると、玄関ではなく南側の角の、小さな入口に導かれた。明るい陽射しが溢れていた。茂勝は慣れたように進み、扉を自ら開け、その前の石の上で履物を脱いだのである。そして石より一尺(三〇センチメートル)ほど高い扉から、跨いで中に入っていった。宗易もそれを真似て中に入った。
【前回の記事を読む】いまだ、納得する「なり・ころ」の良い茶道具に出会えていない千利休。そこへこんな言葉が...「ではご自分で探されては如何ですか」