恵比寿駅近くにはこの商店街とは異なる市場が存在していました。その市場には駅前商店街とは違う個人商店が立ち並び市場へは父親とよく出かけました。父は魚屋と花屋の店主と知り合いのようで、この2軒にはいつも一緒に行きました。花屋には父の両親の仏花を買いに、魚屋へは鮭の頭をいつも買いに出かけていました。
その市場の出口にあるのが駄菓子屋。私の一番の楽しみはこの駄菓子屋でお菓子を買ってもらうこと。あの頃は恵比寿、代官山、中目黒に駄菓子屋が多数点在していました。
今では駄菓子はスーパーマーケットやコンビニエンスストアでも買えるけれど、あの頃は駄菓子屋にしかない安くておいしい駄菓子を買うこと食べることが私には幸せなことで、今であればおしゃれなカフェ巡りをするような感覚でしょう。お金のかからない楽しみ、趣味の一つでした。
飲食店に出かけることは少なかったけれど、いつも恵比寿のお蕎麦屋さんには連れて行かれていました。
当時はお蕎麦が苦手で、しかもお昼時は相席が当たり前のお店。小学生の私は自意識過剰すぎる子どもで、知らない人と一緒のテーブルで食事をするなんて周りからどんな目で見られているのだろうと思うとますます食が細くなるばかり。しかし大人になってお蕎麦が好きになることで、あのお蕎麦屋さんを懐かしく思うことが増えました。
当時の恵比寿には2軒の銭湯がありました。家にもお風呂はあるのに風呂好きの父に連れられてよく銭湯に行きました。が私が連れられて入るのは男風呂。まだ幼少期とはいえ今なら一定の年齢からは性別ごとにお風呂は入浴するように条例でも決まっていますが、私は小学5年生まで女風呂に入ったことがない人生を歩みました。
銭湯の石鹸の香りが大好きでした。お風呂上がりのビン牛乳は買ってもらえませんでした。
時代は流れ恵比寿ガーデンプレイスがオープンをして眠らない街に少しずつ様変わりをしていきました。あの場所はその昔は臨時列車の乗降のための駅舎でした。その駅舎が廃業になり、使われなくなった列車を改造してトレインレストランが開業をしたのがまだ幼稚園時代。
まだ新幹線にもビュッフェがあった時代で、車内にレストランがある時代でした。が、我が家は外食が基本許されない家庭で、新幹線のビュッフェを利用したこともなく、恵比寿のこのトレインレストランに多大なる憧れを抱いていました。
恵比寿地区の再開発が決まりガーデンプレイス建設が決まり、区画整理が決まることで土地をすべて更地にする建築計画が発表されると同時にトレインレストランが閉店することが決まりました。それをきっかけに1度、母親と食事に行くことになりました。
【前回の記事を読む】携帯電話の無かった時代。今のようにいつでも誰とでも連絡が取れないことが当たり前で、その分他者からの束縛も少なかった。