ところが紛争のさなか、誤って飛んできた砲弾がこの鐘塔の屋根の一部を吹っ飛ばした。飛んできたのは一度きりだが、よりによって村の象徴でもある大事な鐘塔に当たってしまったのだ。怪我(けが)人が出なかったのは幸いだったが、村人はさすがに抗議した。
その抗議の様子を、たまたま紛争の取材できていた外国の記者が伝えたため、このときばかりは政府もまさかの早さで動いた。すぐさま鐘塔の屋根の修復に取りかかり、その様子を公開し、逐一(ちくいち)世界に向けて報道させた。自治を求める彼らの側にいかに大きな非があり、その暴挙を鎮静するために政府は軍を派遣しているにすぎないとうまくアピールしようとしたのだ。
あのときは村人も期待したものだ。記者たちのインタビューに率先して答えて、巻き添えになった自分たちの苦境をここぞとばかりに訴え、世論が動いてくれることを念じていた。
だが、修復が終わり、記者たちが引き揚げてしまえばそれまでで、結局はうまく利用されただけで終わってしまった。それどころか修復作業の際に一旦取り外された大鐘とカリヨンは役人の手でどこかに持ち去られ、保管場所もわからないまま今になっても戻ってはこない。
バスからは乗客が次々とおりてくる。どの人も工場の青いジャンパーを着て、タラップの下で帽子を脱いで見送るエゴルに軽く会釈し、それぞれの家路へ散っていく。
その中に一人、遅れておりる娘がいた。膝(ひざ)までの黒いブーツにようやく尻が隠れるほどの短いスカート、肩が剝(む)き出しの鮮やかなオレンジのホルターネックの上に窮屈(きゅうくつ)そうなデニムのジャケットをはおった若い娘は、一番後ろの席に座り、乗客がみんなおりてから面倒くさそうに立ちあがる。