1 塾

夏期講習

電車の中。塾のバッグを背負った山口晃はドアの手すりにもたれ、窓に映る自分の顔の向こうに街の明かりを見ていた。小高い丘を通る時、電車からは眼下に広がる住宅地の明かりが見える。昼にはまったく気にならない景色だが、こうして塾からの帰りには自然と目が行く。

電車がいくら走っても、その明かりはどこまでも続いている。その無数に見える明かりのひとつひとつに人が住んでいて、あんなにも沢山の人たちがあの中でどんな生活をしているんだろう、とぼんやり思う。

 

景色は駅の壁に遮られ、ぼんやりとした晃の意識は現実世界に引き戻される。電車が止まり、表情のない大人たちがドアに流れていく。晃は降りていく人たちの顔を眺めた。

塾の帰りはいつもこんな気分だ。塾なんか行っても自分の何かが変わるわけでもないのに。一体何のために通っているんだろう。

塾へは幼馴染の小川健斗の紹介で、この夏、同じく幼馴染の田辺悟と入塾テストを受けて入ることになった。正直、成績などあまり気にしたことはなかった。小学生なんて、運動ができて、そこそこ面白ければ学校生活に不自由を感じることなんてないじゃないか。

いや、むしろ今の生活に満足している。何かもめごとが起こったって、声が大きい者勝ちだろ。それに勉強だって特別できないってわけでもない。

塾へは健斗の通っている塾が急に評判になって、入塾するのが難しくなってきているなんて変なうわさが広まったせいで親が急に焦り出しただけ。親が勝手に決めたことだ。晃は母光江から入塾を勧められた時のことを思い出す。

「晃、健斗君英検三級取ったらしいじゃない」 ゲームをしている晃の背中越しに光江が第一声から嘆きの声を上げる。晃はゲームをしながら「健斗は勉強が好きなんだよ」と生返事をする。また親同士のお喋りの副産物を持ってきやがったな、とちょっと構える。

健斗が英検取ったからって、だからなんなんだよ。

「ウチももっと早く塾に通うべきだったかしらねぇ、どうしたら健斗君みたいに勉強するようになるのかしら」

晃は仕方なさそうにゆっくり振り返ると、頬に手を当ててこちらを見つめる光江の目をしっかり見据える。

「あいつはね、お勉強が好きなの。俺はゲームが好きなの。わかる? ちがうのよ、カレとボクとは」と開き直ってツンと視線をゲーム機に戻すと、その手はさらにゲームボタンを高速で押してみせる。

光江の手は額へとあてがわれ、うつむき加減に首を振る。

「もうすぐ中学でしょ、中学に上がって英語ができないと苦労するわよ」

「大丈夫だよ。俺、そんな馬鹿じゃないから」

「えぇぇぇ、そうなの? 何か証明するものでも見せてもらったかしらねぇ」

光江がすっとんきょうな声で驚いてみせた。

小学校も四年生くらいから塾に行き始める友達が多くなって、帰ってから遊ぶ相手が急にいなくなる。前は学校から帰ってくるとすぐに健斗と悟が遊びに来て三人でゲームをしたり、自転車を乗り回したりして遊んでいたのに。

健斗が中学受験するとかで塾に通い出してから三人で遊ぶことはなくなった。まぁ、だからって友情が変わったわけじゃない。六年になって親たちが中学の勉強を心配し出して色々言ってくるようになったのは、正直鬱陶しさもあったが、塾は遊びの延長線のような期待も感じる。