我輩の主人は一瞬ぎくっとした顔をしたが、

「ま、ケン坊、そう手荒なことを言うな。彼らもそれぞれ思うところがあって、陰に陽に努力してきているからな。ケン坊の言わんとするところは分かった。あと少し頑張ってみよう」

と、どこまでも優しい心遣いだ。

この優しさが後日仇となって返ってくるとは夢にも思わなかったことだろう。

二度目の嘆き

我輩のご主人は古代氏の後任外相に後輩の海軍大将が就任したこともあって一旦は辞任の気持ちを思い直した。しかし、この外相もわずか三か月で交代し、北里外相になったことでまたもや状況が変わってきた。

ある日の夜、我輩のご主人がグラスを片手に、

「ケン坊。今度外相になった北里氏だが、儂は彼とは殆ど接点がない。やはり日本側とパイプが切れてしまうと日本の状況が把握できなくなっていかんな」

と愚痴をこぼすようになった。

我輩も「そうですね。気心が知れない相手だと電報一つとってもやりにくいですからね」と一応同調してみせた。

日米交渉も相変わらず進展がなく、以前の不安がまた次第に膨れ上がってきたのか、再び落ち着かない状況に陥った。

そして我輩のご主人はここが潮時とばかり、北里外相宛に外相就任の祝辞に加え、帰朝願いと辞任を申し出た。余程思い余っての請訓だったのだろう。珍しいことに今回はひと言の事前相談もなく、その夜バーボンを傾けながらしみじみとした口調で我輩に告げた。

さて、こうなって一番困ったのは外務省だ。日米関係が一年前とは比較にならない程こじれてしまったこの時期に、我輩のご主人の後任として駐米日本大使を受諾するか否かの判断が賢い候補者の頭の中を瞬時に駆け巡った。

尤もその判断基準が「危機に臨んで国家のために全身全霊を打ち込む」だったのか、それとも「受諾するのが今後の外交官人生でプラスかマイナスかの損得勘定」だったのか、我輩の知るところではない。

ただ我輩なりに彼らの思考プロセスを辿ると容易に次のように推測された。

・・・・・・

「昨年一九四〇年五月英国でストロングウィル首相が就任以来、米国の対英援助の増強、今年八月大西洋憲章の宣言とアングロ・サクソン同盟が強化され、英米が反枢軸でがっちりスクラムを組んでしまった今では日米関係はいよいよ袋小路」


(*筆者注) 仏領インドシナ(現在のベトナム)を仏印と呼称。この内、サイゴン(現ホーチミン)を中心とする南部地域を「南部仏印」、ハノイを中心とする北部地域を「北部仏印」と称した。

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