第一部 日本とアメリカ―対立—
プロローグ
いきなりタイムトンネルに乗せられて八十年前の世界に案内されてはさすがの読者の皆さんも困惑されるかもしれない。
そこで、詳細な歴史の流れについては近現代史ご専門の先生方と膨大な学術研究書にお任せして、ここではタイムトンネルに乗る前に第一次世界大戦後から日米が開戦に至る時期の世界の状況、特に米国、日本を取り巻く大まかな世界の動きをざっくりと眺めておくことにしたい。
第一次世界大戦とその後
一九一四年に勃発した第一次世界大戦。それ以前の戦争や紛争とは桁違いの爪痕を残した。主な点を挙げてみよう。
一 局地戦が総力戦に。多数の国が二つの陣営に分かれて対決。
二 飛行機、自動車、戦車、潜水艦、毒ガスなど軍事・機械技術の著しい進歩と新兵器の登場。
三 戦場となった欧州列強国の疲弊と彼らの帝国主義・植民地政策の終焉。数百年間続いたオスマン・トルコ帝国やハプスブルク帝国の崩壊と民族の独立。
四 “眠れる獅子”支那の目覚め。
五 新興国日本の急速台頭。戦後五大国の仲間入りとパリ講和会議の常任理事国入り。軍部の膨張。陸軍はロシアを、海軍はアメリカを仮想敵国に。
六 米国一強の始まり。戦後日本を見る目が 「要注意」に。一八九九年「東アジア政策の原則」で支那の領土保全と通商機会均等を主張。戦後その原則を「東アジアの国際秩序」に格上げし、一九二二年ワシントン体制で日本を牽制。秘かに「オレンジ作戦」を練って対日戦争計画を策定。
一九二〇年代~三〇年代
米国と日本に絞ってみると……。
第一次大戦が終わってみれば米国の一人勝ちで「黄金の二十年代」。極東・太平洋方面に於ける原理・原則を掲げ、従来の侵略、植民地化、租借、領土獲得、不平等条約締結等の動きとは一線を画し、門戸開放・主権尊重・領土保全・機会均等を推し進めて出遅れた利権獲得を追及。移民法もこういう空気の中で成立。
一方、日清、日露以降連戦連勝の日本。第一次世界大戦も殆ど無傷で乗り越え、国土も安泰。大戦のどさくさに紛れ中国、南西アジアのドイツの植民地を獲得。食料不足、資源不足、人口膨張のはけ口を満州に求めて百四十万人もの移民。居留民の保護を口実に軍部も増強。膨張は軍部だけではなく国民も狂騒的に支援。
一九三〇年代。大恐慌で世界経済が大混乱の中、日本は満州事変を起こして支那に本格進駐。米国も大恐慌の脱出策として海外市場・輸出拡大を推進。満州事変を不戦条約違反、九ヵ国条約違反だと騒いだものの、反日の動きはまだ穏やか。
一九三七年七月七日盧溝橋事件から支那事変に発展。十一月日独伊防共協定、翌一九三八年国家総動員法の発布辺りから、米国は明確に日本抑え込みの姿勢に転じ、航空機部品の対日輸出禁止、日米通商航海条約の破棄、第二次世界大戦勃発で中立法廃止。一九四〇年六月両洋艦隊法成立で大艦隊建造開始、七月英国に無制限援助開始、九月対日鉄屑・鉄鋼輸出禁止……と矢継ぎ早の日本封じ込め策を展開。
片や、日本の動きも目まぐるしく、政権交代、北部仏印進駐、日独伊三国同盟の締結、支那戦線の泥沼化……と流れは速く、深く、その勢いは止まるところを知らず。
中国支援で日本を封じ込めたい米国。一方米国とは喧嘩を避けつつ、交渉を通じて中国との泥沼の戦いから抜け出す糸口を見つけたいと焦る日本。
こうした日米の思惑が交錯する中、一九四〇年十二月新駐米日本大使が任命され、運命の一年が始まった。
いよいよここから筆者は柴犬に、ご登場頂く方々もそれぞれ変身して頂いた上で、一緒にタイムトンネルに乗り込んで皆さんをご案内します。
では出発進行。
ゥ~、ワン!