第1章 自分の特徴は自分でもなかなか把握できない

新たな環境のなかで小さな気づきが増える

CMの高校生と同じ生活だった/高校時代 

実は、地元の公立中学校から、茨城県立下妻第一高等学校に入学した。当時、自宅から通学圏にある進学校はこの高校しかなく選択の余地はなかった。このあたりの事情が、高校の選択肢が豊富にある都会の学生にはあまり理解されない。

当時、高校は、高校は、自宅から徒歩で10分もかからないところにあったので、家を出るのが8時20分頃でも1時間目の授業には十分間にあった。

この通学路の途中には長さ20メートル、幅が4メートルくらいの石畳があって、大きさが不揃いの御影石が敷き詰めてあった。

石畳沿いに民家が向かい合っていたが、左側の民家に住んでいたおばあさんが毎朝石畳全体を掃除していたので、石畳の通学路は塵ひとつなくいつもきれいだった。

その家には石畳に面した木製の通用門があり、数段の石段を下りると石畳に出られるようになっていたが、黒っぽい格子戸と灰色がかった御影石とのコントラストがなんともいえない古風な風情を醸し出していた。

高校時代、なぜか、この石畳を歩くのが密かな楽しみだった。5度くらいのゆるやかかな坂道になっており、上りきったところには写真館があった。

春は写真館の塀越しに見える椿の花を視界に入れながら坂道を上り、夏は朝早くから打ち水がされてところどころ濡れた石畳を、汗を拭いながら少し大股で歩いた。秋には左側の民家の木から落ちたであろう楓の葉を強く踏みしめていった。

石畳のせいか踏みしめたときに出る音色がカサカサと乾いていて、秋の気配を強く感じることができた。冬は雪が積もって真っ白になると、革靴と石畳に挟まれた雪がキュッキュッと鳴りとても耳に心地よかった。

石畳を歩く時間は20秒程度だったが、実はこの時間をとても大切にしていた。また、この通りを左側に曲がったところで、別の高校に通う「中学時代の同級生」に挨拶することも密かな楽しみのひとつであった。

当時、高校は、国公立大学に50~60人程度が合格していたが、残念ながら、東京大学などの難関校にはわずかな人数しか合格していなかった。

危機感を抱いた先生方の長年の努力もあり、現在は、国公立大学には150名ほどが合格しており大学進学率ではかなり躍進している。

附属中学校もできた。ただ、昭和40年代は、茨城県全体でも東大合格者は20名程度で明らかに教育後進県であった。筑波研究学園都市が建設中の頃だった。

そんな状況のなかで、実はどうやったら難関校に合格できるのか、高校1年生の頃から受験雑誌を読んではいろいろと対策を考え始めた。

高校1年生になって、学習内容が難しくなったこともあり、中学時代と同じような単純な暗記を中心とした勉強法では通用しないことを痛感した。