第1章 自分の特徴は自分でもなかなか把握できない
新たな環境のなかで小さな気づきが増える
学業に目覚め、全国を意識しはじめた/中学校時代
国語はどうしたのかというと、ラジオ講座以外ほとんど勉強しなかったが得意であった。定期テスト前に漢字のチェックをするぐらいで十分であった。
どういう意図かわからなかったが、父が一式まとめて購入してくれた『小学館・世界少年少女文学全集』50巻を、休日を利用して、小学校5年生までに読破してしまったことが大きかったように思う。
特に、『十五少年漂流記』はおもしろかったので何度か読み直した。これを題材にして、読書感想文コンクールに応募したこともあった。
この小学校時代の50巻読破は、国語で必要な語彙力の強化にもつながったが、結果的に多読の習慣が身について国語力が大きく向上したように思う。ちなみに、この多読の習慣と文学好きの兄の影響からか、中学3年生の頃には、明治文豪の小説をかなり読んでいた。
知の巨人といわれる「森鷗外」の漢文交じりの文語体で書かれた文章には畏敬の念を抱いたが、一番好きだったのは「志賀直哉」の写実的な文章であった。『城の崎にて』における部屋の窓から眺める蜂の巣についての描写には、特に惹かれるものがあった。
自然をありのまま眺めそれを写実的な文章にする能力に強い憧れを抱いていたのかもしれない。『城の崎にて』の文章の一部をそのまま何度か書き写したこともあった。
茨城県の筑波山近くの下妻市で商家の次男坊として育った実は、兄が商売を継ぐことになっていたこともあり、中学生の頃から、自分が将来なにになりたいか、なにに向いているのか、ひとりでしょっちゅう考えていた。
仲間たちとわいわいやるよりも、ひとりで遊ぶことが好きで、好きなことには何時間でも集中できるタイプであったことから、地道に仕事を進める技術者や研究者のような職業が向いているのではないかと朧気ながら考えていた。
確かに、この頃から、兄が使っていたアルコールランプ・ビーカー・石綿金網・三脚台のセットをときどき倉庫から取り出して、ビーカー中の水にいろいろな物を入れては加熱沸騰させその変化を観察していた。
いっぱしの科学者になったようでけっこう楽しかった。ただ、庭で捕まえたジョロウグモがその対象となることもあった。まったくひどい話だ。
しかし、現在のようなインターネット時代と違って、当時、地方で得られる世の中の情報はごくわずかであった。近くの小さな本屋で、科学雑誌を見つけてはざっと読んで、最新と思われる世の中の情報を断片的に仕入れるしか手がなかった。当時、『日経サイエンス』が創刊されて間もない頃だった。
同居していた従姉が大学受験を控えて、旺文社から刊行されている『蛍雪時代』という定期購読雑誌をとっていたので、中学生の実は、それをときどき眺めていた。高校2年生が志望校を考え始める3月には、分厚い大学紹介号が発刊された。
興味本位でその雑誌をよく開いていたが、全国には多数の大学があるものの、東京大学や京都大学を紹介しているページ数は他大学に比べてかなり多く、安田講堂や時計台の写真が大きく掲載されていた。
せまい地域の受験生だけの勝負となる県立高校の受験と違い、大学入試では、全国の秀才たちとの競争になる。
小さいときから勉学に適した環境で育っている都会の秀才たちに勉強で勝てるとはとうてい思えず、地方の公立中学で成績上位というレベルで喜んでいるようでは、難関大学に受かることは不可能であるとしか思えなかった。
まだまだネガティブな性格が抜けないときであった。