第1章
140年も前に“こうすれば地震の予知は可能だ”と 提言した人々!
1.ジョン・ミルンの提言と「日本地震学会」の誕生
不遇な晩年となったミルン
しかしその後、濃尾地震を経て設置された政府の「震災予防調査会」(1892年)ではミルンはその中心となることは無かった。
『憲法発布、帝国議会の開会(いずれも1890年)によって、日本は西洋列強諸国の仲間入りをはたし、帝国大学で教えていたお雇い外国人のほとんどは、任期満了とともに帰国し、日本地震学会も会員たちの相次ぐ帰国によって1892年に会の活動を中止した。
1895年には東京のミルンの自宅兼観測所は火災にあい、ミルンが日本で集めた書籍・資料はすべて焼失、失意の中でミルンは英国への帰国を決意、19年間勤めた帝国大学を辞し、トネ夫人とともに英国へと旅立つこととなった』(1)と言う。
『ミルンはイギリス本土の南端、ポーツマス港の対岸にあるワイト島に遠地地震の観測のためのシャイト地震観測所を建設し、夫人とともに長くここに住んだ後、1913年満62歳の生涯を終えた。
トネ夫人は1919年日本へ帰国の後、1925年函館湯ノ川通の家で満64歳の生涯を閉じた。いまトネはミルンの遺髪と歯骨とともに、二人が初めて出会った、函館山の山陰の“海”を見降す願常寺(トネの生家)の墓地に眠っている。
二人の墓の側面には
東京帝国大学工学部冶金部教室内
故ミルン先生夫人追弔金募集実行委員
今村明恒
俵 国一
外九七名
と刻まれている。
外国人お雇い教師ミルン教授とこの碑を残した弟子たちの間に結ばれた深い信頼感は、教授の人望の深さと明治・大正時代の学問への憧憬を表わすものであろう。
あわせて、トネ夫人が日本の女(ひと)であったことへの親密さも籠められているのではないだろうか。』(2)開国間もない日本の学徒たちに残した彼の足跡と、関係者との交流には今に通ずる新鮮な風を感じる。