2.今村明恒の地震予知への挑戦

そのミルンの伝統を継承したとされるのが、のちに東京帝国大学教授となる今村明恒(1870年〜1948年)であった。

今村は薩摩藩の中級武士の家系に生まれ、1891年に帝国大学理科大学の物理学科に入学、地震学を専攻した。

「関東大震災」を予知できなかった地震学者に批判!

『今村は地震予知の研究に情熱を注ぎ込んだ。今村が重視したのは、地震の直前に起きる、あるいは起きるのではないかと考えられた前震や地殻変動である。地震が起こりそうな場所に、前もって微動計や傾斜計を配置したり、土地の水準測量を行ったりすることが必要である、と主張した。

今村は1905年9月に総合雑誌「太陽」に発表した論文で、

「東京は死者1,000人以上を出すような大地震に平均すると 100年に1回見舞われている。死者7,000人を出した安政の江戸地震(1855年)からすでに50年を経過している。災害予防の点からは1日の猶予もできない」などと警鐘を鳴らした。」

これに対して1906年、上司である大森房吉博士は、論文「東京と大地震の浮説」で「結局、地震の起これる平均年数より生じるものなれば、学理上の価値は無きものと知るべきなり」と述べ今村説を「根拠なき空説」「取るに足らざる」などと批判した。

1923年9月1日、首都を直撃した関東大震災は約10万人の死者を出した上に、首都機能をほとんどマヒさせ、日本の社会に大きな影響を及ぼした。

これほどの大地震であったのに、なぜ予知できなかったのか、予知できていれば、もう少し被害は少なくてすんだかも知れない、などの怨嗟の声が、東京帝国大学の大森房吉を中心にして進められてきた地震学に向けられた。』(3)

1923年、東京帝国大学教授となった 今村明恒(画像提供:国立科学博物館)

地殻変動の観測で地震の予知は可能に!

『大震災を契機に、1925年11月には今村等の強い働きかけで東京帝国大学に「地震研究所」が設立され、研究所の主要な目的として、「基礎的な研究を進める事によって、地震予知実現の手がかりを得よう」という方向が示された。

東京帝国大学教授(地震研究所員兼務)の寺田寅彦が地震予知は不可能と考えていたのに対し、多くの地震研究者は地震の予知は可能であると考えていたが、その筆頭は関東大震災後に脚光を浴びた今村明恒であった。

彼が地震予知の決定打になりうると考えたのは地殻変動の観測であった。

「地震予知問題は机の上では立派に解決していると思う。それには地震観測に特殊の観測網(ネットワーク)を張る設備が必要で、かなりの地震は2,3週間、時には20,30分以前に完全に予知することが出来る。

将来は網の目を追々小さくすることによって微かな地震でも立派にその前徴を予想し得るであろう」と語っている。』(4)


(1) 泊 次郎『日本の地震予知研究130年史 明治期から東日本大震災まで』(一財)東京大学出版会 2015年 67、69頁

(2) 森本貞子「女の海溝 トネ・ミルンの青春」五稜郭タワー(株) 1994年 339、407、412頁

(3) 泊 次郎、同上書、94 ~ 96、99、103、110頁

(4) 泊 次郎、同上書、133、135、167、168頁

【前回の記事を読む】「緊急地震速報」とほぼ同じアイデア: 横浜で最初の揺れが観測されたら、すぐに電信網で東京に伝え、警告の大砲を発射する。

次回更新は10月6日(日)、8時の予定です。

 

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