第1章 
140年も前に“こうすれば地震の予知は可能だ”と 提言した人々!

2.今村明恒の地震予知への挑戦

南海トラフ地震の予知にかけた今村博士

『1828年、今村は次の「南海道沖大地震」を予知すべく、観測網の構築に取りかかった。

しかし、今村が構築を目指した地動観測網も資金の大部分は友人からの寄付と今村の私財に頼っており、観測要員も今村の次男や地元の学校教員のボランティアに頼っていた。

それでも1930年には和歌山県の和歌山、田辺、串本、徳島県富岡、兵庫県福良、高知県室戸岬の6か所に傾斜計、微動計からなる南海地動観測網が完成したのであった。

しかし、日中戦争の進展に伴って、南海地動観測網を維持することが難しくなっていったが、それでも南海道沖大地震の予知にかける今村の情熱は衰えることは無かった。』(1)

ついに前兆現象を観測か?(1944年・御前崎)

1944年12月7日午後1時36分「東南海地震」発生。(M7.9、静岡・愛知・三重などで合わせて死者1,183人、津波は熊野灘沿岸で6~8m、遠州灘沿岸で1~2m。理科年表2024)

『その日、東京帝国大学名誉教授今村明恒の要請(今村が委託した費用)で陸軍参謀本部陸地測量部が静岡県内で行っていた、水準測量の測量隊が午前中の観測値を前日観測値と比較すると、あまりの違いに驚愕。しかも水準器の気泡が安定しなかったため、試行錯誤を繰り返している最中に大地震が起き、道路が波打って来るのが見えたと言う。

この観測差が地震発生の直前に起きた「異常隆起」とされ、のちに東海地震が予知できるとの主張を裏付ける唯一ともいえる、前兆現象の観測例に位置付けられていく』(2)こととなった。

「18年の苦心、水泡に!」

2年後の1946年12月21日午前4時過ぎには「南海地震」(M8.0、死者1,330人)が発生。

『今村は、ラジオのニュースを聞いて詳しい状況を知り、「ああ18年の苦心は水の泡となった」と嘆いたという。

というのも、今村は12月13日に高知県室戸町の前町長黒田治男氏に宛てて、「南海道沖一帯に大地震があるかも知れない。破損している検潮器を至急修理して検潮頼む」との手紙を送ったが、到着したのは大地震に見まわれて、うろたえている21日朝のことであった。』(3)