第1章 
140年も前に“こうすれば地震の予知は可能だ”と 提言した人々!

3.国を動かした「ブループリント」!

「新潟地震」が引き金に、国の「地震予知研究計画」始動!

新潟地震(1964年6月16日、震源:新潟県沖、M7.5、死者26人、住宅全壊1,960棟、地盤の液状化による被害大、津波が日本海沿岸一帯を襲い、波高は新潟県沿岸で4m以上に、粟島が1m隆起、理科年表2024)では、昭和石油新潟製油所の重油タンクが2週間にわたって炎上、4階建ての県営アパートが横倒しに、竣工したばかりの昭和大橋の橋げたが落下などの衝撃的な映像が全国に放映された。

(下流にある新潟市のシンボルである「萬代橋」は1929年に架け替えられたが、大きな損傷はなく翌日には通行可能になったことが話題となった。)

一方で、新潟地震は国会、マスコミ等で「地震予知計画の促進」という観点で大きく取り上げられることとなった。

地震予知への機運の高まりを受けて文部省の測地学審議会は「地震予知を達成するために、地震予知研究計画に早急に着手すべきである」と関係各大臣に建議。

ここに、1965年度を初年度とする「地震予知研究計画」がスタートすることとなった。

投じられた国の予算は1次から1988年度に始まる第6次計画までの約30年間で実に1,148億円に上った(文部科学省 研究開発局地震・防災研究課)。

1965年に「地震予知研究計画」がスタートしてからの30 年間、我が国では大きな地震が少なかったため、地震予知計画の成果が出なかったとされたが、実情は観測体制の未整備こそ、その要因であったと言えよう。

 1968年「十勝沖地震」 (M7.9、死者52名)

 1974年「伊豆半島沖地震」(M6.9、死者30名)

 1978年「伊豆大島近海の地震」(M7.0、死者25名) 1978年「宮城県沖地震」 (M7.4、死者28名)

 1983年「日本海中部地震」(M7.7、死者104名)

 1984年「長野県西部地震」(M6.8、死者29名)

 1993年「北海道南西沖地震」(M7.8、死者・不明230名)

(理科年表2024)観測体制は計画の年次を重ねる毎に、充実強化されたとしても日本海沿岸や北海道沖の海底地震、日本アルプスの山岳地帯にまでは「前兆現象」監視の目は届いていなかったと思われる。