第二章 片倉小十郎重綱の使命

そもそも葛西大崎一揆とは何だったのだろう。葛西氏も大崎氏も奥州きっての戦国大名であったが、天正十八(一五九〇)年小田原北条攻めに参陣しなかったことが、天下人関白殿下に対する反抗とみなされた。旧領三十三郡は没収された。

新たに領主に任じられたのが木村伊勢守(きむらいせのかみ)だった。新領主の実施する検地(けんち)、刀狩(かたながり)に不平不満を抱く葛西氏大崎氏の旧家臣や、彼らにつながる有力豪族たちがいっせいに立ち上がった。鎌倉室町時代以来、この地に根を張ってきた戦闘能力の高い旧武士団が、いっせいに武装蜂起したのである。これが葛西大崎一揆である。

ところがなんと、その一揆の筋書きを書いて扇動したのは伊達政宗である、と関白殿下に訴え出る者が現れた。訴人はまさかの伊達家の家臣。さらに伊達さまの祐筆(ゆうひつ)がその証拠なる書状を差し出す、という事態になったのである。

もちろん伊達さまは否定する。当然のことながら書状は真っ赤な偽物と主張した。関白殿下の前で、その書状の真贋が争われることになったのである。

証拠として差し出された書状の花押(かおう)は、誰の目にもまさに伊達政宗さまのものだったという。

「殿下、真物か贋物かは簡単に見分けられまする。それがしの書状には、すべての花押のせきれいの目に、針にて小さな穴をうがちましてござりまする。なにとぞ花押をお確かめのほど、願い上げまする」