第二章 片倉小十郎重綱の使命

屋代を悪く言う声は大きいが、よく言う声は聞いたことがない。屋代を「地獄の墓掘り人」「闇の殺し屋」と呼ぶ者もいた。だがすべては伊達さまへの忠勤であったろうに、最後に来て伊達さまの意に沿わぬことをしでかしてしまったのだ。

なぜ突然、所領や家禄、屋敷を没収され追放されるような厳しい仕置きがなされたのか。それは、屋代勘解由兵衛景頼という男が剣の技で出世はしたが、しょせん乱世に生きるしか能がなかった、ということに尽きる。

きっかけは年貢を納めない百姓を斬殺したことであった。景頼の年貢の取り立ては過酷なものだったと聞いている。さらに景頼は、おのれの配下である成田一平から年貢未進の百姓について相談を受け、斬刑を教唆した上に実行した成田一平を匿った。

伊達さまは領内の施政方針として、百姓の私成敗を禁じた。領主が勝手に百姓を斬ることを禁じたのである。

「百姓は食を産み出すもとである。保護を加えて藩の体となせ」

これが伊達さまの行う政治の基本の一つであった。景頼が伊達家の重職にありながら、年貢未進だけの理由で百姓を斬り、同じ罪科の配下までも匿ったことは、新しい時代に向かう伊達さまの為政を踏みにじったに等しい。

「領主と言えども、領内の百姓を勝手に裁くことはできなくなったのです。これが事件の十年前なら、問題になったかどうか……。時代は変わったのです。百姓は領主のものではなくて藩のもの、つまりは仙台藩からのお預かりということです。屋代はそこのところが読めなかった、とお思いになりませぬか」

表立って誰も言わないが、伊達さまにとってある時期、屋代は便利で必要な「殺し屋」だったのだろう。誰かがやらねばならぬ汚れ仕事を屋代は一手に引き受けた。

むしろそれを楽しんでうまくこなしたように見受けられた。だが、時代が移ってもうその役割は終わったことに気づけなかったのだ。

上さまは新しい時代へと身を滑らせて、古い汚れた衣を脱ぎ捨てられていたのだ。

屋代勘解由兵衛が流浪の末に四十六歳で客死した四年後、伊達陸奥守となられていた上さまは四十六歳で、仙台藩とスペインの通商交渉を目的とする使節団を、牡鹿(おしか)半島の月の浦から出帆させている。大坂冬の陣の始まる前年の慶長十八(一六一三)年であった。

イスパニア人ルイス・ソテロを外交使節の正使に、支倉六右衛門常長(はせくらろくえもんつねなが)を副使として送り出したのだ。もちろん、ご公儀にもお許しを得ての大事業であった。