上さまと屋代は年が四歳しか違わなかったことに、今あらためて気づかされた。屋代が四歳年長だ。乱世にしか生きる場がなかった男だったのか。
儂は屋代が憎めない。嫌いになれない。考えると涙すら催すのだ。上さまだって、屋代をただ便利なだけの男、使い勝手がいいとだけ考えていたとは思えない。どこか相性の合う大切な股肱の臣であったと思いたい。
その後伊達成実(しげざね)どのが、屋代勘解由兵衛景頼の子息を家士に取り立てられたことには、上さまの何らかの働きかけもあったのではないか、と儂は勝手に想像している。
何故かと言えば、伊達成実どのは随分と屋代勘解由兵衛から迷惑を受けた、と聞き及んでいるからだ。それにしても、再三の注意に肯(がえ)んじなかった屋代の心に何があったのか。過信でなければ上さまへの甘えだったか。
「屋代どのは人を斬るだけのおひとではありませんでした。岩出山城の礎を築いたのは屋代勘解由兵衛景頼どのです」
あんちゃんは呼び捨てにしていた屋代に殿をつけて、姿勢を正したのだった。岩出山に居城を築いて一年になるかならぬかに、朝鮮に出兵することになった。文禄の役である。
初の海外遠征ということで、上さまは伊達成実どのと親父どのを同道され、岩出山城の城代として屋代勘解由兵衛景頼を抜擢されたのだった。
上さまの留守居のお役目は、これまで伊達成実さまが務められてきた。小田原参陣でもそうだった、だが高麗御陣には伊達成実さまは欠かせない家臣であった。
「屋代の命は我が意と思え」と言い残した伊達政宗さまの言葉は重かった。上さまの名代としての留守居役に全権が集約されたのだ。
伊達さまにとって岩出山というところは、葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)の後も残存勢力がくすぶりつづける不安定な地であった。
それらの勢力を鎮圧し平定するために岩出山を居城とされ、かつ一揆成敗代官として大殺戮をやってのけた屋代を、城代に据えたのはまさにうってつけの配置だったのだ。
この地を長い期間空白にしておくのは、危険この上ないことと考えられたのである。
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