私の憔悴ぶりを見た義理の祖母・輝子が、チェロの伴奏者を希望していた私のために、音楽家を紹介してくれていました。しかし、失恋してからしばらくは、結婚について考えられませんでした。

三十歳が目前に迫る頃、なぜかますますチェロの伴奏をしてくれる方と結婚したいと思うようになったのでした。そんなとき親戚の方が、音大を出たばかりのピアニストを紹介してくれました。親戚の娘さん二人にピアノを教えていた、泰子さんという先生でした。

学校の民主化を求めて組合結成へ

退院後一年間は、担任は持たずに数学教師として勤め、クラブ顧問は電算部とギター部と弦楽部を持ちました。次の年になっていよいよまた担任を持つことになり、本格的な教員生活が始まりました。

しかし、当時は給与も低くて給与体系もハッキリしておらず、また教育内容も決して良いとは言えませんでした。なので毎年辞める教員が多く、次々と新しい先生に変わっていました。

そんな中、待遇改善や教育内容の充実を目指して組合を結成しようと思う先生たちが集まって、毎日気づかれないように気をつけながら準備を始めました。

そして、いよいよ結成集会を行うため、私が昼休みに校内放送をして教職員のみんなを会議室に集めました。

その後、私が財政分析をして問題点を明らかにし、学校側に給与体系を作らせると、給与も徐々に上がり、ついに給与に関しては、都内五本の指に入るほどになりました。すると次第に良い先生も集まりだし、教育内容も改善してきました。

学級編成も、能力別や文系理系などは廃止。文系理系を分けない自然学級編成にし、また大幅な選択制を導入しました。

さらに、通知表や指導要綱をコンピュータ化できるようにプログラムを作り、教員の負担を軽減してその分もっと生徒たちに目を向けた指導ができるように、と考えました。

組合員の先生たちが一丸となって改革していった成果として、城西学園はとても民主的な学校になり、待遇も大幅に改善されました。私は一番激しい時期に、解雇覚悟で組合の委員長をしていたのです。

中学校併設で中学校免許取得へ

当時中高一貫校を目指し、私立高校が中学校を併設する動きが進む中、城西学園でも一九九一年に中学校を併設することになりました。

この話が出る前から私は、中学生も教えてみたいと思っていました。しかし、私は前述の通り中学校の教員免許は取っていませんでした。

【前回の記事を読む】運命を変えた演奏家・角田孝雄先生との出会い。先生の家への居候をきっかけに数学教師への道が開ける?

次回更新は10月9日(水)、18時の予定です。

 

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