第4章 一夫と泰子さんの生い立ち

3 私の生い立ち

先生との出会い

それは、我が家に間借りしていた方が弾いていたのでした。プロの方だそうで、さっそくレッスンをお願いし、弟子にしていただきました。何と、私が一番弟子でした。

その方が、読売日本交響楽団、東京交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団などのオーケストラ奏者を経た後、チェロの指導者、フリーのチェロ奏者として活躍された角田孝雄先生です。この出会いが私のその後の運命を変えたのでした。

角田先生には、私のレッスンだけでなく、東京理科大学管弦楽団のチェロパートの指導や個人レッスンもしていただきました。

その後、先生はさらにいくつかの大学オケのチェロパートの指導やレッスンをするようになりました。しかし、初心者はなかなか一人では曲の演奏までできないので、先生の指導の下、弟子たちの合奏を始めることになりました。

友人の調律師が初心者でも弾けるチェロ合奏用の作曲をしてくれたこともあって、初心者も演奏を楽しむことができるようになり、大変好評でした。さらに年一回の合宿も始めました。

そして、角田先生のお弟子さんによる「チェロアンサンブル パブリート」が誕生しました。パブリートとは、チェリストのパブロカザルスのパブロの幼名のことで、私が会の命名をしました。

また、発表会は年二回行っていましたが、お弟子さんが五十名ほどになってきてソナタ全楽章を弾くなどということができなくなり、発表会とは別に年一回、「高尾の会」という会を開催することになりました。

こちらでは、チェロソナタ全楽章を五人程度で弾くため、普段と違って一人三十分ほどの演奏時間を持つことができました。

また先生は、福岡に毎月一回大学オーケストラのレッスンをしに行き始めました。私も夏休みなどの休みのとき、何度も連れていってもらいました。そんなわけで、福岡の泰子さん宅に、楽譜を持っていく機会があったのでした。

角田家に居候

大学は無事に卒業したのですが、何のために数学を高校まで学ぶのかということに悩んでいて就職しませんでした。

そして、大学時代からしていた家電量販店の配送のアルバイトを続けていたのですが、そのアルバイト先は角田先生の実家の近くだったので、今度は私が先生のお宅にお世話になることになりました。