そんなとき「音大を受けるのですが、グランドピアノで練習をしたい」と、先生のお宅に女性が訪ねてきました。そのときにたまたま在宅していた私が対応したのですが、その女性はすっかり私が角田先生だと思われたそうで、後から本物の先生を見て大変驚いていた、なんてこともありました。

弾くことを許可された彼女は、さっそくピアノの練習をしに来るようになったのですが、なかなか上手になりませんでした。そこで、このままでは音大は無理だと思った先生は直接レッスンをし始めたのです。

そうこうしているうちに何と二人は、結婚することになっていました。結婚後、彼女はピアノのレッスンをしながら、チェロのお弟子さんの伴奏を始め、メキメキと上手になられました。

また私は、先生のお手伝いで三鷹市管弦楽団に入り、オーケストラの演奏を始めました。そのうち団長にまでなり、例えば市主催の親子コンサートで市の担当者と折衝をするなどしていました。

そのような活動の中で、大学時代に悩んでいた「何のために数学を高校まで学ぶのか」について、何かわかった気がしたのです。

直接的に数学の知識を使うのではなく、見る方向が一方的にならないように視野を広げる力を養うことが大切で、数学はもちろん、様々な学問を学ぶことが大切なのだと思えるようになったのです。

そうはいっても、いつまでも働かないでブラブラしているわけにはいかず、数学の教員免許を取ることにしました。

大学に入学したとき、まず言われたのは「卒業後、教員免許を取りに来る卒業生がいますが、そういうことがないように在学中に取るように」ということでした。あれだけきつく言われたのに、結局卒業後に申し込みに来た私はやはり怒られました。

そうして怒られながらも私は無事高校の教員免許を取得したのでした。このとき、一緒に取ることができる中学校の教員免許を取らなかったのには、当時必須科目だった「測量」の存在がありました。

私は夏の炎天下の中、外で講習を受けるのが嫌で、受けなくとも取得できる高校の教員免許だけ取ってしまったのでした。しかし、この選択はまた私を後悔させることになりました。

数学の教師になり、すぐに担任になったが教員免許を取得した私がさっそく就職先を探していると、姉・さえ子の義父が豊島区千早町にある城西高校(当時は高校だけ)を紹介してくれて、二十五歳(一九七三年)のとき高校の数学教師をすることになりました。

教員になり、さぁ心機一転頑張ろうと思っていたら、何といきなり一年生の担任になり、一年生は六月にはオリエンテーション旅行があるので、四月早々からその準備で忙しくなったのでした。

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次回更新は10月8日(火)、18時の予定です。

 

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