第4章 一夫と泰子さんの生い立ち

3 私の生い立ち

角田家に居候

それでも五月の連休には、パブリートの仲間で飯能の天覧山に行くことができました。しかし、登山の途中で変な咳が出始め、帰宅すると空咳も出て、さらに血痰まで出始めたのです。

これは変だと思い、さっそく父に診てもらったところ、肺結核と診断され、そのまま父の勤めていた清瀬市の国立療養所東京病院(現在は国立病院機構東京病院)に入院することになりました。

せっかく就職した学校でしたが、わずか二か月で休職して担任も外れることになりました。入院中は、午前も午後もベッドで寝ていなくてはならない時間帯があり、その時間になると大きなサイレンが鳴るのでベッドに戻ります。

病室は個室なので、家(病院の官舎)からオーディオを持ち込んで、その間レコードを聴いて癒やしていました。

二度の失恋

当時私は、チェロ仲間の女性を好きになり、結婚したいと思っていました。入院中のある日、その彼女がお見舞いに来てくれました。彼女から友人関係のことで相談があり、私は「いろいろな人と付き合った方がいいよ」と言ったのでした。

そして、後日再びお見舞いに来た彼女から「彼からプロポーズされ、結婚することにしました」と衝撃的な一言を受けました。

当然ものすごいショックを受け、あんなこと言わなければよかったと悔やんだと同時に、私より彼の方がよくて選んだのだからしょうがない、とも思いました。

その日は一晩中、バッハの無伴奏チェロ組曲第五番を聴いて泣き明かし、しかし、それでスッキリしました。その後も彼女とは、友人として付き合っています。

三か月くらいで退院予定でしたが、耐性の菌だったようで薬が効かず、結局八か月も入院し、翌年(一九七四年)の二月に退院しました。退院するときにはすっかり筋肉が落ちて、ほっそりスマートになりました。

失恋からやっと立ち直った頃、福岡で角田先生のチェロのレッスンを受けていた女性と恋愛関係になりました。五月の連休や夏休みに新幹線や飛行機で会いに行く遠距離恋愛が始まり、毎回会いに行くのを楽しみにしていました。

交際は順調に進んでいて、彼女のご両親に耶馬溪に連れていってもらったこともあり、そのとき父親と一緒に温泉に入ったりしてとてもいい関係でした。これはいい思い出です。

あるときは、福岡との中間地点ということで、彼女と京都でデートをしたりもしました。順風満帆のように思っていたのですが、なぜかピタッと合う感じがどうしてもせず、話し合って別れることにしました。

これで二度目の失恋です。