2 我が家の話し合い
居酒屋で私たちが結婚したときは、組合活動が一番大変なときでした。私は立ち上げメンバーの一人で、執行委員もしていました。さらに後年には執行委員長も歴任したので、なかなか二人で話をする時間が取れませんでした。
このままではいけないなぁと思った私は、ある日「東高円寺村(居酒屋)で飲みながら話をしない?」と提案しました。
泰子さんは「私も、話したいことがあるし、いいんじゃない」と賛成してくれたので、毎週水曜日に話をすることにしました。
私は学校での良かったことやうまくいかなかったことなどを話し、泰子さんはどうしたらピアノが好きになってもらえるかといったレッスンでの悩みや子育てについての相談を話してくれました。私は、自分の経験から様々なアドバイスをしたりしていました。
「お陰で音符カードを作るだとかの工夫で、子どもたちが楽しみながらレッスンを頑張れたわよ」と泰子さんは言っていました。
この話し合いによって私たちは、お互い隠し事がなくなり励まし合うことができました。ですから、けんかなんてしませんでした。
祖母と子ども二人の五人で暮らしていた一九八四年頃の出来事でした。長男の保は、まだ小学校に上がる前でしたが、私たちが東高円寺村に行っていることはわかっていました。
そんな中、まだ小さかった妹の泉が泣き始めました。そこで長男は、祖母と妹を連れて、東高円寺村まで来たのです。しかも妹は、靴を手に持っていて裸足でした。
私たちがどこにいるのかを子どもたちはわかっていたので、心配はなかったようですが、その後は子どもたちも連れて、一緒に食事をしながら話し合うようにしました。泰子さんはこの東高円寺村で、マスターから様々な料理を教えていただき、どんどん上手になっていきました。
そうしてマスターとも次第に顔なじみになり、ついにはマスターご夫婦と我が家の別荘に一緒に旅行に行くぐらいに仲良くなりました。私たちは運転ができないので、マスターの車に乗せてもらい、別荘での料理もマスターに作ってもらえるという、私たちにとっては超リッチな旅行でした。
家族会議始まる
子どもは三人目も生まれ、やがてみんな小学生になりました。そこで泰子さんが提案し、月一回家族会議を開くことになったのです。
【前回の記事を読む】未来を変える母の言葉 厳しい言葉を受けても、気持ちを奮い立たせ、ステージへ立つことに。
次回更新は10月6日(日)、18時の予定です。