本棚に手をつけると、ある一冊の分厚い本に目が留まった。随分と使い込まれていて、表紙に書かれている題名はパッと見ただけでは読めないくらい擦りきれていた。

目を凝らしてジーッと見る。すると、「トワコの人生解説集」と読めた。首をかしげながら最初のページを開く。そこには、トワコの生まれた日にち、時間、身長、体重が正確に記録されていた。母親が書いていた育児記録かもしれないと思い始める。

パラパラとページをめくっていくと、やがて五歳の頃の記録で手が止まる。近所の空き地で、友達の男の子が赤ちゃんザリガニを見せてくれた時のことが記されていた。トワコの頭の中に当時の記憶が一気に押し寄せてくる。

 

男の子が大切そうに抱えていたタライの中には、小指の関節一つ分くらいの水と隠れ家になるように入れられた拳大(こぶしだい)の石が置かれ、ピョコピョコと小さなザリガニが動き回っていた。何とも嬉しそうにタライを差し出し、トワコと周りにいた友達たちは興味津々で覗き込んだ。

しかし、周りの子たちはすぐに飽き、飼い主である男の子と共に別の遊びを始めてしまい、その場に残ったのはトワコだけになった。

しばらくは目の前で動き回っていたザリガニだったが、そのうち自ら石の下へと身を潜め出てこなくなった。もしかしたら石の下敷きになってしまったのではないかと、無性に心配になったトワコは、石の位置を少しだけずらし様子を見ることにした。

間違いなく親切心でやったことだった。しかし、次に現れた時にはザリガニの足は折れ、ヒョロヒョロと力なく動く姿になっていた。

一瞬にしてトワコは血の気が引いていった。自らの行いが、かえって仇(あだ)となってしまったことを五歳ながらに悟ったのだ。残酷な現実を前に急に怖くなり、何も言わずにその場を去った。ザリガニがどうなったのかは知るよしもないが、死んでしまったことは容易に予想ができた。

 

半世紀以上前にもかかわらず、トワコの記憶の中には今でも当時のことが鮮明に刻み込まれている。しかし誰にも話した覚えはなく、母親も例外ではなかった。つまり、単なる育児記録でないことは明白なのだ。

さらに本の中には、この件に関する解説なるものも書いてあった。それによると、状況をきちんと説明し謝ることができていたのなら、時間と共に記憶は風化したと記載されている。

確かにそんなものなのかもしれない。もしも逃げずに謝れていたのなら、罪悪感は刻印されることなく綺麗さっぱり消え去っていたのだろう。小さな頃の思い出なんてそんなものだ。多くがいつの間にか風化し、ほとんどを覚えていないのだから……。

トワコは小さく頷いた。そして本を閉じ、表紙の題名を指でなぞる。「トワコの人生解説集」はその名の通り、トワコの人生の出来事やそれに対する解説が書いてある本なのだと納得した瞬間であった。

【前回の記事を読む】自販機で必ず当たりが出る男。いつの間にか、当たることこそが日課になっていた。

次回更新は9月5日(木)、18時の予定です。

 

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