担任は、再度私に忠告するように「もう一度言うがランクを落とせ。青梅の都立多摩高校でも難しいぞ!」と言ったが、担任の忠告を無視して希望する高校を変えることはなく、意地を張って「第一志望を変えるつもりはありません。合格できるように頑張ります」と私は答えた。

担任は、私に言い聞かせるように「例えば、都立小金井工業高校とか!」、父親も「先生の言うように、ランクを落としなさい」と忠告した。私は、一度決めたことを変えることができない頑固な性格で、自宅に近いという理由を変えないで、第一志望を変えることはなかった。

都立高校の受験に失敗しても、高校進学できるように、地元の当時偏差値が高くない、私立昭和学園も受験することにしていた。担任からは、「松君は、おそらく昭和学園に進学することになるだろう」と呆れていた。

昭島高校の合格発表の日は、二月の体が冷えるほど寒い日であった。入試結果には自信がなく、そんな気持ちで確認に向かう足取りが重かった。昭島高校の学校の校門をくぐるのに気乗りがしなかった。

一月の都立学校の入学試験に出題された問題が難しく、碌な点数を取れないことはわかっていた。「国語、英語、数学三教科合わせて百五十点にも達していないだろうなぁ」と呟きながら合格番号が掲示している場所に進んだ。

合格発表の番号が掲示されている場所に多くの受験生が集まっていた。

掲示板を見て隣にいた受験生から「私の受験番号があった」と喜ぶ声。

「おめでとう。紀子と同じで私の受験番号もあった」

別な受験生から「俺の受験番号もあった」同じく「受験番号があった」と合格した生徒達がお互いに称え合う声が聞こえて来た。拍手があり、お互いに嬉しそうに喜んでいる姿を見かけた。私は、喜んでいる受験生の姿を見ると羨ましかった。

自分の学力を考えないで受験したことを悔やみながら確認したが、昭島高校の掲示板で自分の受験番号五十四を確認できなかった。

「五十一、五十二、五十五」と探していたが、やはり受験番号五十四が掲示されていない。競争率は一・一倍で一割が不合格で少数派だった。

やはり私の受験番号は、掲示されていなかった。

「担任が進路指導で言ったように、やはり学力不足で無理だった」と臍(ほぞ)を噛む思いで掲示板を見ていると中学の同級生であるクンチ(松木国吉)が傍にいたので、「クンチの受験番号は掲示板にあった?」と尋ねると、「今探しているところだ!」不機嫌な顔をして答えた。

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