量水器ボックスの販売は難しいことになりそうだ、と松葉は思った。市の指定メーカーになることさえ難しそうだ。指定する側とされる側のしがらみも相当なものがありそうだ。
まして、地元企業を蔑む気風のある土地柄で、下りもの、即ち東京や大阪で作られたものが貴ばれ、そのものがブランド化していた時代だ。そこに感情問題が絡んでいる。
公務員に対して「公僕」という言葉が盛んに使われた時代だった。ということは、裏返せば市民に対する「奉仕の精神」など全く欠如している証左であった。
モノを作ることはさほど難しいことではない。それに比して、売ることの難しさを嫌というほど思い知らされた。なかなか鋳鉄部門の経営改善は進まなかった。
相変わらず、鋳造部門は毎月赤字が続き、人件費も稼げない状態が続いた。
開発製品も手詰まり感が漂い、会議でも沈黙が続いた。一方、松葉はアルミサッシ会社で培ったノウハウをもとに、ビル用アルミサッシの製造販売を始めた。
自分で建材部長という肩書をつけて、販売部員1名、サッシ加工部員2名で毎日夜遅くまで働いた。木製建具がスチールサッシに、そしてアルミサッシに代わろうとするときで、アルミの説明からしなければならなかったので、売り込むのにたいへん苦労した。
しかし、少しずつ売れるようになり社員も増えてきたので工場が手狭になり、新しく工場を建設することにした。
しかし、このまま鉄鋳物部門の赤字をいつまでも傍観者の立場で見ていてもよいものかと悩んだ。