フローベールの物語にはすでに初期作品から、決して幸福な恋愛、愛し合う二人が達する無限のエクスタシーは存在しない。
人物達は空想の、この不可能な愛を追求し、恋が与える瞬時のエクスタシーを持続しようと望んで現実の人生には不幸しか見出せないのである。
現実の人生に恋の〈無限〉を求める事は、フローベールにとって早くから放棄されているといってよいだろう。
3.汎神論(panthéisme(パンテェイスム))的恍惚体験
この体験の最初の記述は、1840年ピレネー・コルシカ旅行の〈コルシカ島サゴーヌ湾〉の記録(『旅行記』)にみられる。
「海はバラより馨しく香り、我々はうっとりとしてこの香を嗅いだ。身のうちに日の光を、海の微風を、水平線の眺めを、ミルト(銀梅花)の香りを吸いこんだ。
……光と純粋な大気、えもいえぬ甘美な思いに浸たされ、全ゆるものが体内で喜びにうちふるえ、自然の諸要素とともにはばたく。人はそこに心を集中し共に息をする。
この微妙な結びつきの中で撥剌とした自然の精髄が体中を走っていく。……何か天上の偉大で柔和なものが日の光の中に漂い、空に立ちのぼる朝のバラ色の蒸気のようにこの光り輝く無限の中に消えていく。」
すでにここには後に同種の体験を記述する『11月』『野を越え、磯を越えて』にみる要素のほとんど全てが示されている。
広大な海、空、太陽、風、波音、香り、光、視聴嗅触の各感覚を介しての自然への浸透、共感、同化拡散、恍惚感とその消失……。
40年のこの体験をより明確にした42年夏トルービル海岸での体験を基にしていると推定される『11月』での記述は、物語中の一エピソードとして挿入され詳細で文学的にも精錬されてきている。
「……神の霊が身内にみなぎり、自分の心が雄大になってくるのを覚え不思議な衝動にかられて何かしら崇めたくなっていた。できる事なら日の光の中に吸いこまれ、海面から立ち昇る匂いと共にあの果てしもない青空の中に没入してしまいたいと思った。
すると狂おしい程の歓喜に捉われた。まるで天上の幸福がそっくり自分の魂の中に入
り込んできたかのような気持ちで歩き出した。
……その時僕は天地創造の幸福と、神が人間の為にそこに生み出して下さった喜びとがことごとく理解できた。忘我の境地だけが聞く事のできる完璧な諧調の如く、自然界が美しくみえてきた。……」
長い記述なのでごく一部しか抜粋できないが、ここに至る各感覚の援用も詳細多岐にわたり、サゴーヌ湾では〈天上的な何か〉としか言われなかったものが〈神の霊〉と記され、文字通りの自然=神に一体化する体験が語られている。
【前回の記事を読む】"無限"は無限であるがゆえに、いざペンをつかみ表現しようとも、一言も書くことが出来ない