第一部フローベールの芸術的出発 ―初期作品を読む ―
2.恋にみる〈無限〉
彼女は涯てしない情熱への、無限の恋への尽きない渇きを覚えていた。」(『情熱と美徳』)と恋愛や心を形容する〈無限〉の例はあったが、『11月』では恋の思いそのものを〈無限〉とし恋に果てしない幸福感をみようとする。
「思春期の恋愛には官能性など全くなく唯無限感がみちている。」
「恋を夢みるとは全てを夢みること、それは幸福の中でも無限のものである。」
さらにこのような恋を求める心と、自然に溶けこみ忘我したいという欲求が混同される。
「恋をしたい欲求、恋に全身をあげて溶けこみ、何か甘美で偉大な感情にひたりたい欲求、光と香りのうちに気を晴らしたいという欲求に心がとらわれるのを感じた。」
この欲求は、官能的欲望に、まだ見ぬ女性に投影され、主人公は激しい情動にかりたてられて恋を、女性を求めて外に出る。そして自然全体がこの思いを刺激する。
「……僕はこの生き生きとした自然の重みに気圧されて快楽に気が遠くなりそうだった。そして恋を呼び求めたのだ!」
自我と非我の境界が消失し宇宙的合体感のうちに生じるこのエクスタシーは、他者と自己との一体感を瞬時にもたらす恋愛の陶酔においても得られうるものであり、フローベールがここに〈無限〉をみようとした事は肯ける。
青年期の彼は恋の情熱を一点に、愛する人に集中することで宇宙が輝き世界が開かれるような涯(はて)しない恋を夢想した。しかし、彼が求めた恋愛は想像裡においてしか、物語の中でしか可能ではない。自らもそれを認め、現実の恋をシニックにみつめる眼も早くから併せ持っている。
「崇高な愛がもし存在したとしてもこの世の美しいものが全てそうであるようにそれは空想にすぎない。」
最もロマン派的自伝作品と言われるこの『狂人の手記』においてさえ、もはや彼にはロマン派の描いた恋愛を信奉することは不可能であった。
「あれは最も崇高なものであると同時に最も下らぬ茶番劇なのだ。」この劇の進展、各幕は『初稿感情教育』で詳述され愛し合っている人間の間にも次第に虚無のすきま風が忍び込んでくる軌跡を描いている。