第一部フローベールの芸術的出発    ―初期作品を読む ―

3.汎神論(panthéisme(パンテェイスム))的恍惚体験

G・プーレが指摘するように注1、この状態を安定させる事も他と切り離して確保することもできないのである。同じ道を引き返し同じ足跡をみることで、この分断された生の隔りは一層意識される。

フローベールは後に『ボヴァリー夫人』や『感情教育』で人物を同じ場所に立たせ、同じ足跡へ回帰させることで、自己が体験したこの距離感、虚無の深淵を開いてみせるであろう。

4.思い出=過去にみる〈無限〉

「……過ぎ去った日々の思い出にふけっていた。何故なら思い出というものは快いものだから。……それは無限を要約しているのではないか? 時として人はすでに過ぎ去ってもはや帰らぬある一時、永遠に虚無に帰したある一時の事を考えて何世紀も費やし未来の全てをかけてその一時をとりもどそうとするのだろう。

しかし、そうした思い出は暗い大広間にまばらに置かれた燭台のようなもので、暗闇に光っている。目に見えるのはその光のさしているところだけ。その近くにあるものは輝いているが、他の全てのものは一層暗く、闇と不安に包まれている。」(『11月』)

自然への融解と同様に、主人公はこの思い出の中に身を沈める。青年の背後にあるのはたかだか20年程の時間であるのに、彼はこの過去=思い出に〈無限〉をみる。

主人公は思い出の多様性、量に圧倒され、そこに自分一人の生ではなく、〈過去の様々な生存物の残骸をもっている〉と思え何百年も生きてきたように感じるのだ。

これは『初稿感情教育』のジュールの思い出のあり方にもみられる。

「……この思い出が全部自分一人に属するのかといぶかった。たった一人の生で十分なものかと考えた。そしてこれらの思い出を失なわれてしまった別の生活に結びつけようとした。……こうした同じ土地、同じ藪を前にして浮かんでくる多様な考えの全てを思い出し、……もはやそれらを引きおこした動機も、相互の推移もはっきりとは捉えられなかったのに驚いた。そして唯自分の中に……一つの混沌としたもの、その秘密を理解できない世界全体を見出した。」

このように思い出はあまりに生々しく多様である為に、一人の人間の過去を確かなものとして回顧させるどころか、持続的時間をもって生きる人間の存在感情さえあやうくする混沌とした広がりに化してしまう。