しかも過去を再現、所有するはずの思い出は、無限を要約するものと言われながら、過去を一望の灯の下にはみせてくれないのである。
過ぎ去って二度と取り戻せない虚無の闇として過去は存在の背後に横たわっている。まばらに置かれた灯が照らし出してみせる諸相は、闇の中で各々の部分だけくっきり浮かび上がっても、互いに孤立し相互的な連関はみせてくれない。
無限の闇にどんなに灯をふやし続けても、又その灯がどんなに明るくても無限は包摂されない。思い出の連鎖をいくら連ねても過去は、この〈無限〉所有を可能にするような持続的完全な相としては捉えられないのである。
むろんG・プーレが指摘したような注2、何でもない些細なものに触発されて、一時的に全生涯を一挙に甦らせる思い出もある。
しかし、それは放置すればすぐに幻のように消失してしまうものである。
「……自分の全生涯が幻のように目の前にあらわれてきた。……やがてそれらはみな一斉に飛び去ってどんよりした空の彼方へ消えていった。」
記憶の集中作用によって甦る詳細な思い出にしたところで、決して安定したものではない。
この思い出が詳細で生き生きとしたものであればあるだけ、思い出している今との乖離(かいり)が露呈されてくる。
「……あの最初の香りは味わい尽くされ、あの声音は消え去っていた。僕は自分が感じていた欲望を懐かしみ、味わい失った歓喜を悼んだ。……過ぎし日に感じた期待と、今のやりきれない倦怠を考えると、自分の心が生存のどの部分に位置を占めているのか最早分からなくなった。」
あの高揚した感覚体験と同様、過去と現在を結びつけるものは何もない。
過去を回顧する事で得られる喜びは、時間の連鎖の中での存在を確かなものにしてくれないのである。
「……一つの名前を思い出すと全ての人物が服装や言葉使い共々に甦ってきて僕の人生でやった通りの役割を演ずるのだ。僕は神が自分の創造した世界をみて楽しむように、彼らが眼前で振る舞うのをみている。」
注1)C. Du Bos, Approximations, t.I, Plon, 1922–1939.
注2)G. Poulet, Les métamorphoses du cercle, Plon, 1967.
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