忍び寄る病魔
ある日、千恵が
「私はこの先も長く通院が必要になると思うし、娘の通学時間やパパの通勤時間のことを考えると東京に引っ越しをしたい」
と言い出した。当時住んでいた場所には十四年ほど住んでおり、地震の影響で辛い思いはしたが、住みやすい街だと感じていた。私は、引っ越しに反対していた。
「東京は物価が高い、家のローンも増える」
私は引っ越ししたくない理由をあれこれ言って難癖をつけた。それでも、
「食料品は、安いお店を探せばいくらでもあるし、何より、時間はお金に変えられないでしょ!」
と反論された。心の片隅には、長期入院や万一のことがあった場合、自宅が会社や病院の近くにあった方が良いだろうとは思っていた。
その週末、私たちはあるマンションの内覧会に行った。引っ越し先のいろいろな場所を見て回っている千恵は、意気揚々としていて、楽しそうだ。部屋を見ている際に、
「ここは、私の部屋ね、ここはパパの部屋、彩ちゃんの部屋があそこで、テーブルはこの辺り、TVはここかな」
千恵は胸を躍らせている。その様子を見たら、誰が反対などできようか、楽しそうな笑顔を絶やしたくない。
千恵の笑顔はお金で買えるものではないのだ。今の千恵は、東京のマンションに引っ越しすることだけが生きる望みとなっていた。私にはよく分かっていた。
「これが最後の一生のお願い」
「はい、はい、はい、分かりましたよ」
と気のない返答をした。内心どうでもよかった。
引っ越し先を決める際、義姉が近くに住んでいたことや先々、東京で五輪が開催される可能性があり、地価の高騰や利便性が良くなるとの評判もある場所を選んだ。