冬の訪れと卒業式
妻と娘が旅行でいないある夜、私は自宅のピアノを弾いていた。
私は、ピアノを弾くことになるとは夢にも思っていなかった。ピアノのような右手と左手を別々に動かさなくてはならない器用なことなどできるわけはないと思い込んでいた。
私がピアノを弾きはじめたのは、結婚前に妻とした“とある約束”がきっかけだった。ピアノを弾くことに夢中になりながらも、このままピアノを弾き続けても良いのかと自問自答していた。
ある年の十一月中旬、ボジョレーヌーボーが解禁となり、ワイン好きの妻と一緒に飲むため、残業もそこそこに切り上げて帰宅した。
「あれっ、飲まないの?」
夕食時、グラスにワインを注いだところ、意外な答えが返ってきた。
「ちょっと、調子が悪いんだ」
左胸の下にあるしこりのようなものを指し、「少し違和感があるの」と言った。
妻は千恵という名である。千恵はしこりを気にしていたが、私は全く気にしていなかった。千恵はワインを口にせず、私がワインを一杯飲んだだけで終わった。
翌日から、その事について話すこともなく、一週間程度が過ぎた。夕食時に、いつも愛飲していた缶ビールでさえも、飲まなくなった。
私は、どちらかというと、身体が丈夫な方で、ほとんど風邪などひいたことはない。胸の違和感も時間が経てば、自然に治るだろうと軽く考えていた。