第一部 認知症になった母の人生

第4章 いよいよ同居が始まった

焼き鳥パーティで大盛り上がり ある日突然

だからこの意味においては、ご批判を敢えて甘受したいと思います。

ただ、家族というのは、目に見えるところでは整理がつかないまま、決して他者には理解できない、理解されない地下深くで家族に連なる人々の思いや知覚、感覚そして感情が十重二十重に重なり合ってカオス(一筋縄でない混沌とした世界。答えが無限にある多様な場所)を作りあげているものかもしれません。

家族はそもそものその成り立ちに、割り切れないことを割り切れないままに生きるということを必然として内包しているのではないか。それが家族のもつ深淵かもしれないと思う歳になりました。

割り切れないことを割り切ろうとする(割り切ってはいけないことを割り切ろうとする)その粗暴さや危うさがカタストロフィー1をもたらすのでしょう。その証左として図1を掲出します。(人は家族によって殺されている)

図1

だから、家族は時にこの世では聴くことのない美しいハーモニーを奏で、他方、家族はこの世では見ることのない壮絶悲惨、魑魅魍魎(ちみもうりょう)2の地獄絵図(じごくえず)を時に顕(あらわ)にするのです。家族は、人に深刻な不快感をもたらすこともあれば、反対に特上の歓喜をくれるのでしょう。

京都大学の総長を勤めた霊長類学者の山際寿一(やまぎわじゅいち)さんは、自身のゴリラに関する研究結果から家族にはそもそもその成り立ちにおいて「ある意味の矛盾やアンビバレンツ3」を抱えているといいます4

それを私なりに解釈すると、家族は外部の者をクローズし家族員だけの集団で閉じていたいとする求心力と家族のしがらみから解放され、個人として生きていたいという遠心力という真逆の二つの力が同時に働いているが、この微妙なバランスをなんとか保っているのが正直な姿ではないでしょうか。