父の実家と儒教の風習

そんな楽しい魚釣りを終え、次の日に今度は父の実家に行きました。

父の実家は母の実家から山を越えて、一時間くらい行かねばなりません。バスでは行けません。

朝起きると、庭に大きなオートバイがありました。二五〇ccくらいの大きさです。私はこのバイクに乗って父の実家に行くのだなと直感しました。でも、母と私二人がどうやって乗るのでしょうか。

まず若いバイクの運転手が乗り、私がその若い運転手のお腹に手を回し、しっかり持ちます。その後私の後ろに母が乗り、今度は母が私のお腹をしっかり腕を回し乗るのです。まるで命懸けでした。それで約一時間バイクに乗り、無言で父の実家まで山を越え乗せてもらいました。

今考えてもよく行けたなあと感じます。無我夢中だったのでその運転手の顔など全然覚えていません。ありがたかったです。

私達が滞在したのは父の長兄の家です。父は五人男兄弟の四番目です。ほかの四人の兄弟の家はその周りに建っています。あのお宅は二番目のお兄さんの家、あれは三番目のお兄さんの家、それからあそこは弟の家と、ある間隔置きながら建てられており、そこの村はまるで「羅家」の一族の小さな村のようです。

周りは豊かな田園地帯です。クナボジ(父の三番目の兄)が朝早く牛を連れて、遠い山を越えて牧草を食べさせにいく風景が、まるで一幅の絵のようで牧歌的です。

その集落の小高いところに集会所のような建物があり、それを祭室と呼んでいました。そこは一家で何か話し合いや、セレモニーがあった時に皆で集まるところのようです。

父はこんな環境で育ったのです。その時は本当に素敵な田園地帯でしたが、植民地時代に田畑は朝鮮総督府に取り上げられ、農業で生活できなくなり、日本に出稼ぎに行ったのです。

父の実家に滞在して三日目くらいになるでしょうか? 私は近所にある父の二番目の兄の家に誘われて遊びに行きました。そこには女の従姉妹が数人いました。そこで四方山話ができてとても楽しかったです。

初めて会うのに、まるで昔から知っていたかのようにお話が弾むのは不思議です。韓国人は親戚を大切にすると聞いていましたが、こういうことなのだとわかりました。垣根がないのだという実感がありました。

ある時、従姉妹の一人から「あなたは私より年上なのですから韓国語を目下用の言葉に下げて使ってください」と言われました。言葉使いを下げて話してくださいと言われたのは初めてです。最初はどういう意味か理解できなかったのですが、母が子供に話す言葉と、父に話す言葉が違っているのを思い出しました。

私は少し韓国語を話せますが、まだまだ奥が深いです。日本語にも丁寧語、尊敬語、謙譲語などありますよね。韓国語もそれと同じなのかもしれません。私は「ごめんなさい。まだまだ韓国語をそこまで話せないの」と言いました。

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