第4章 母と共に父母の実家訪問

母と韓国へ三十年ぶり里帰り

私が二十五歳の時、一九六八年頃のお話です。母は「自分が日本に来て三十年になるし、お父さんが亡くなって五年経つので、自分の実家と夫の実家に里帰りをしたいのだが、お前も一緒に韓国に行ける?」と聞かれました。

彼女はこれまで、両親が亡くなった時でさえ、国交が正常化されていなかったので帰ることができなかったのです。

韓国の金浦飛行場に着いた時のことです。飛行場の税関員がすごく怖かったイメージが残っています。母の荷物があまりにも多かったので、税関員は目を皿のようにして、母の持ってきた荷物をチェックしていました。

特に価格が高く税金がかかるようなものはありませんでしたが、母の姿はまるで韓国語でポッタリチャンサ(行商)で韓国に来た感じでした。三十年ぶりの帰国なので、親戚へのお土産をたくさん持ってきたかったのでしょう。

税関を出ると、母の妹とその息子が待っていました。母は懐かしそうに、皆と手を取り合って涙を流しながら喜んでいました。生きていたから会えたのです。

妹の息子、つまり甥っ子は奇しくも母の長男と同じ年齢で三十三歳です。彼はソウルで小さなかつら工場をやっており、女工さんを十人くらい雇いかつらを作っています。

その当時韓国はかつらを作り、外国、特にドイツやアメリカに輸出していました。彼も家内工業ですが海外に輸出して頑張っていました。

私と母はその甥っ子の家に一泊し、次の日ソウルから大邱まで二三七キロ、高速バスで行きました。実家までは、大邱からさらにバスで一時間かかります。

当時の道路は舗装されておらず、バスの前を車が走っていると砂埃が窓から入るので、窓を閉めるのが忙しかったです。

バスはオンボロで、よくこれで走れるなと思うくらいでした。バスの中では韓国の歌謡曲のテープを大音量でかけています。乗客はその音楽を楽しみ、一緒に歌を歌っていました。まるで観光バス。向かう先は慶尚北道高霊(コリョン)郡です。

大邱から田園地帯を通り抜け、バスは実家の近くの停留所に泊まりました。母は大荷物を背負って昔から知っている道をどんどん歩いていきます。私は母の後ろをついていきます。一軒の家に入っていきます。庭がありましたが、家はお世辞にも立派といえないお家でした。

その家には韓国のオンドル式部屋(床暖房のある部屋)が二つあります。また隣の敷地に家が一軒あります。これが母の実家のようです。

そこには母の弟が三人、それからチャグンオモニ(小さな母)が住んでいました。もちろん両親はすでに他界しておりません。