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第5章 韓国と日本で働く

国立公衆衛生院

それで「あなたに学校の教員に来てほしい」というのです。私は驚きました。私の同級生が教員として勤めていることを知っているので、「私でよいのですか?」と確認しました。シスターは是非、とおっしゃいました。

そこで私は「私はお産のことは少しはわかりますが、残念ながら人に教えたことがありません。教育学とかそのほかを勉強したいので、国立公衆衛生院に入れていただけませんか?」と、しっかり希望を出しました。そしてシスターから了承しましたという返事が来たのです。

私は本当に嬉しかったです。今まで聖母助産婦学院からは一人も国立公衆衛生院に行っていません。すごいことです。私は日本全国から集まった助産婦、保健婦、看護婦(当時はこの名称)の幹部候補生となります。別に入学試験があるわけではありません。願いが叶ったのでこれも奇跡としか思えませんでした。

公衆衛生院は東京目黒にあります。私は毎日、下落合を出て高田馬場で山手線に乗り換え目黒まで通いました。他府県からの学生は寄宿舎に泊まっていました。

夏までの前期の授業は、公衆衛生に関係する職種の人、医師、薬剤師、獣医、保健婦、助産婦、看護婦の人々が講堂に一堂に集まり、講義を聞くものでした。そしてすべての学生が同じ問題で試験を受けます。後期は各人がグループになっての研究授業などがありました。

私は、個人で教育について学ぶため、これとは別に近くの新宿区立図書館で朝から夕方まで「教育」とついている本を机に山積みにして日々学びました。その時、公衆衛生院の教務にどこで何をしているか断ることもなく、本当に自由に学べました。たった一年ですが、今考えるとこんなに自由に勉強したことはなかったと思います。

公衆衛生院は重々しい建物で、一九三八(昭和十三)年、ロックフェラー財団の寄付で建てられた歴史的建造物です。外の庭の花々も美しいものでした。私の人生で本当に幸せな時間を過ごせたことに、心から感謝しています。

翌四月から聖母助産婦学院の教員として仕事をすることができました。私はここでの学びを助産婦学生に一生懸命教えました。また、教員であれば勉強をし続けることが大切だと思うので、必ず週一回の研究時間をいただきたいという希望を教務主任に出しました。そうして木曜日は私の研究時間になりました。

現在その旧国立公衆衛生院の建物は港区立郷土資料館になって保存されています。私は卒業して五十年になりますが、一度は訪れたいです。