そんなある日のことだった。渋谷医師は眠れぬ夜をぽつんと独り診察室で過ごしていた。そこへ勤務を終えた骸骨が戻ってきた。二人は何ということもなく見つめ合った。やや暫らく無言で向き合った後、骸骨がぽつりと呟いた。
「先生、長い間お世話にナリマシタ」
骸骨はぺこりと頭を下げた。その決然とした様子に渋谷医師は茫然とした。
「何を、そんな、君‥‥いつまでいたって構わないんだ」
だがそれは半ば儀礼だったのかも知れない。我知らずほっと肩の力が抜けてしまったのである。
「な、何故出て行かなければならないんだね?」
そう問われて骸骨は困惑したようだった。
「言い辛いコトモアリマス、ココの人たち皆が好意的トイウ訳デハ‥‥その、いえソレヨリモ、トウキョ‥‥いえ何でもアリモセン」
伊藤医師のことを指しているのは明らかだった。実は女の起こした事故も街の流言も、そして新聞記事も彼の仕業だったのだ。
「いつまでも知らばっくれていると、結局院長に迷惑がかかることになるぜ、いいのかい?」
「‥‥」
「またダンマリか‥‥まぁいいさ、もう戻る所もないしな」、
そんなことばを骸骨の耳元に囁くようにして呟いたのは、つい昨日のことだったのだ。
だが渋谷医師は彼の企みに気づいていなかった。また骸骨の言いたいのはそれだけではなかったのだ。
「ちょっと待ちたまえ、ここに腰かけて少し話し合おうじゃないか」
つい今し方ほっとしたのも忘れ、本気で相手を引き止めていた。こんな日が来るのを心のどこかで予感していたような気がした。だが折悪しく机のインターホンが鳴って、二階の病棟に呼び出された。どうやら急用らしかった。
「いいか君、すぐ戻るから、待っていてくれたまえ。頼んだよ」
そう咳きこむように言うと、彼は足早に診察室を出ていった。
渋谷医師の去った後ドアが少し開いていた。骸骨は暫らくそのドアの向こうを眺めていた。そして深々と一礼すると、何やらボソボソと呟いた。
十数分後彼は駆け戻ってきた。だが診察室の中は蛻の殻だった。
「おいっ君、おい‥‥」
名前を呼ぼうとしてことばを失った。とうとう名前を決めず仕舞いだった。それに急用とは何のことはない、手型の人工皮膚が手違いでナースステイションに届いていたことだったのだ。
これでは折角の手が要をなさない。いや、そんなことは問題ではなかった。あんな姿で、あんなに世間知らずで一体どこへ行くというのか。
骸骨の去った室内はしいんと静まり返って、急に中が広くなったように感じられた。渋谷医師は荷箱を手にしたまま、なおも口をもぐもぐさせていた。蛍光灯が白々と辺りを照らし、彼は成す術もなくぽかんと立ち尽くしていた。
【前回の記事を読む】しょんぼり骸骨、職を失う。素性の知れぬ人間を雇っていることが元請け会社で問題に。
次回更新は8月23日(金)、11時の予定です。