其の一

それは傍目には滑稽な見物だったが、伊藤医師は真剣そのものだった。野心家だった彼は地道な努力を嫌った。腕がいいのに売名に走ろうとする傾向があった。

だからこの骸骨を上手く利用して、世間に名を広めようという魂胆を持っていたらしい。あるいは別の企みがあったのかも知れない。何はともあれこうして診察室の夜は更けていった。

 

骸骨の仕事は続いていた。一度ならず渋谷医師も買物と称して市外まで様子を見に行ったのだが、その仕事ぶりは堂に入ったものだった。件の社長から、「いい人を紹介してもらって」と挨拶されたのも満更お世辞ではなかったらしい。骸骨の身振りもてきぱきとして、如何にも楽しそうだったのである。

だがその幸福な時間も長くは続かなかった。四月も半ばのある早朝、若い水商売風の女が骸骨の白マスクに驚いて急ブレーキを踏んだ。幸い怪我はなかったが、車は破損し自走不能の単独事故となった。

女は変なマスクを被って人心を惑わしたのがいけないと喰ってかかった。骸骨はこれには事情があるのだと抗弁したのだが、相手は全く聞き入れなかった。

「あんた名前は何ていうの、どこの警備会社、責任者はどこよ?」

「イエ、ソノ、小生ハ‥‥ソ、ソノ、アノ」

「いえそのじゃないわよ、名前は? はっきりしなさいよ」

やけに氏名に拘泥するのが不自然だったが、それに気づく者はいなかった。困ったことに詰め寄られて動揺した骸骨は、「ワァッ」というような声を上げて逃げ出してしまったのである。それで一層女が騒ぎ出して、危うく監督官庁が乗りこむところだった。

結局役所の手は入らず、示談で済むことになったのだが、素性の知れぬ人間を雇っていることが元請け会社で問題となった。今度また同じようなことが起きた時、責任問題にもなり兼ねなかったのだ。結果として骸骨は解雇されることになった。

骸骨の落胆ぶりは目に余るものがあった。しょんぼりとして、それがか細い身体を一層侘し気に見せていた。

「君、済まなかった、名前くらいさっさと決めておくべきだった」

「イエ‥‥小生ノ対応ノ仕方ガ悪カッタノデス」

渋谷医師は今更のよう詫びた。そしてあんなに熱心に働いていたのに、こんなことくらいで解雇するとは何事だと息巻いた。骸骨は碌に返事もせず肩を落としたままだった。彼はことばの接穂を失って、指で机をこつこつと弾いたりしていた。だが要は別の仕事を見つければよいのだと気がついた。

渋谷医師は手当たり次第に求人誌を当たることになった。時には診察を伊藤医師に任せて外出することもあった。

調理師見習い、これは手袋を外せないので駄目。喫茶店のボーイ、これもマスクを外せないので駄目。土木作業員は鶴嘴の使い方も知らなかったし、大工の見習いは重い柱が持てなかった。新聞配達では犬に吠えられたし、パンク修理屋では乗用車にトラックのタイヤを押しこもうとする始末だった。

だが悪いことばかりでもなかった。五月には何とか運送会社の倉庫番の仕事が見つかったのだ。それだけではない、つい先日届いた義肢装具士の作ったマスクも本物と見紛うばかりだった。カツラをつければ日中でも外へ出られそうだったのだ。あとは手首が出来るのを待つだけだった。

今度は何とかいきそうだった。また深夜の仕事になったが、骸骨は笑顔を取り戻した。その作業は夜に始まって、朝までにトラックへ仕分けされた荷物を積みこむものだった。手荷物の扱いが主だったから、腕力のない骸骨にも充分勤まるものらしかった。渋谷医師もやっと一息つけるようになった。