フィレンツェ市内にある中華料理店でお昼を食べた後は、ピサを観光する。有名な斜塔に入れないのは残念だが、それがなくてもイタリアという国は世界遺産周辺や街を歩くだけでも目に楽しい。ピサの斜塔周辺もその通りだった。

斜塔とその隣にある教会はその近くを芝生に、さらにその外側は小さいながらも歴史を感じさせる煉瓦の低層の建物に囲まれていた。この時は斜塔の代わりに教会に入ったが、一時間に一度、声が天井まで届くのかどうかというテストがあったことを覚えている。

何故この慣行が必要なのかは残念ながら失念してしまったが、この時驚いたのが、声が天井に響く過程で段々音が高くなるということだった。音域がテノールほどの男性が下から天井に向かって「Ahー」と声を出し、その声はいつの間にか女性の声へと変貌した。

何故このような現象が起こるのか。私はこの旅で、古代ローマ時代やルネサンス期の叡智という「魔法」を見てきた。だがこれはどんなマジックよりも不思議な感じがした。今時調べれば理由はすぐに出てくるだろうが、今ほど「ググる」、「ハッシュタグ検索」という言葉もなかった当時は、直接見聞きするものが私にとっては全てだった。

続いてピサの斜塔。崩れ落ちそうな斜塔を支える写真を撮るのが今も昔も変わらない定番だが、何度試そうとしても私の場合駄目だった。適切な位置を中々探れず、何より斜塔周辺は人が多すぎて余計なものまで入ってしまう。結局祖母には斜塔を少しパンチする一風変わった写真を撮ってもらった。

だが後々見返したら、カメラ目線で緊張しているとはいえ中々の笑顔で写っていた。私自身は小学校一年生の時から「暗い」と言われ、実際アルバムの中の私は無表情なことが多かった。自分では笑っているつもりなのに。そして中学生の時の人間関係をきっかけに、笑顔はさらに失われ、周囲に怒りを撒き散らすことが増えてしまった。

この時もそうだった。自分の怒りを制御し切れず、周囲に心配と迷惑をかけた。そう後悔する頃には、もう遅かったかもしれない。それでも腫れ物に触るように接することのなかった祖母とIさん、そして他の参加者の皆様には感謝の念しかない。

ピサの斜塔と周囲にいる同じツアーの参加者の皆様の顔を見ながら、私は怒りとは違った、少し苦い気持ちになった。

その気持ちを象徴するかのようにフィレンツェに戻る途中で雨が降ったが、バスを出る頃には止んでいた。夕方、一行は市街地の露店を夕食の時間まで散策した。私は市場に入るなり、すぐさまカメラを手に取った。

フィレンツェ名物のとんがり帽子の木彫りの人形や革製のバッグだけでなく、ヴェネツィアの仮面やローマの土産物店に売っていたようなコロッセオの置き物、美容品など、今まで見てきたショップよりもはるかに魅力的だった。

こうした一見雑多でめちゃくちゃとも言えそうな露店が何故こうも美しく思えたのか。当時は雨に濡れた石畳と、フィレンツェの街並みが日本にはない珍しさが露店の魅力を引き出したのだと思った。確かにそれも間違いではない。

だが後々振り返った時、そこに地元の人たちの笑顔があったからというのが私の答えになった。売る方も買う方も険悪な雰囲気だったら、そもそもここにはいたくないと思うはずだ。

だが私が知る限り、イタリアに住む人たちは陽気で、余所の外国人にも優しい人が非常に多かった(少々強引でがめつい部分もあるのだが)。街を本当に支えるのは、行政でも有能な起業家精神を持った若者でもない。そこに住む一人ひとりの、心からの笑顔なのだ。

 市場の美しさの余韻に浸りながら、夕食の時間がやって来た。今回の夕食、ビステッカ・フィオレンティーナはどれだけ固いのだろうと不安もあったが、その不安は取り越し苦労だった(時々「固い」と言っていた方もいらっしゃったが)。

牛肉の固さも当時は心配だったが、さらに言えば私は牛肉がやや苦手だったのだ。日本でも時々ステーキを食べるともたれてししまい、今でもまだその傾向は少々ある。

だがこのステーキは特にもたれることもなく、赤身が多い元々の素材の味を堪能できたように思う。加えて、デザートも私だけ簡単にはもたれるものではないのが幸いだった。

元々デザートにはリキュールに浸したビスキュイが供されることになっていたが、添乗員さんが思い出したように「一人未成年がいるんです」とこっそり店側に交渉していた光景は今も忘れられない。

結果、私だけフルーツコンポートを食べることになり参加者の方々から妙な目で見られることになったが、それも今となっては若い日の笑い話にできる。
 

【前回の記事を読む】文化遺産を現地で見た私が考えなければならないこと。それは戦争と平和に対する問いと答え

次回更新は8月5日(月)、11時の予定です。

 

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