——その頃。

源五郎に打ち据えられた牢人は、人気のない境内の木陰で片割れの牢人に介抱されていた。

と……牢人が意識を取り戻した時、介抱していた牢人の背に別の牢人が近づいて来て、

「何事ぞ?」訝(いぶか)し気に訊ねた。
「これは猪狩殿、とんだ所を……」

源五郎にやられ酔いも醒めたものか、急いで木の根から身を起こしたの牢人が、

「不覚を取り申した……」

「よもや書状を奪われたと申すのではあるまいな?」

「いやいや! 当て身を喰らっただけでござる。物はここに」

胸元を右手で叩く仕草をした。

「このような刻限から酒を呑んでおるから不覚を取るのだ」

微かな呼気からそれを察した猪狩なる者は何者なのか……。

「面目ない」

「浅井、誰にやられた?」

「いや……」と言い淀んだのは、小童にやられたとは言い辛かった為である。

介抱していた牢人が、そんな事などお構いなしに、

「まだ小童と言ってよい程の者で、下人と仔犬を連れておりました。牢人に身をやつしておりましたが、なかなかどうして、品のあるにて……」

「小童? ……仔犬を連れていたと? 片瀬、ぬしは黙って見ていたのか?」

「はっ、なにぶん浅井に落ち度のあった、咎め立てするのも筋違いかと」

浅井を睨みつけた猪狩は、

「この痴(し)れ者めが!」叱りつけた。

浅井も片瀬も猪狩の恐るべき術技を知っていた為、恐怖で縮み上がり地面に平伏する。

「申し訳もござらぬ!」

猪狩は冷たい目で二人を見下ろしながら、一瞬浮かんだ殺気を消し、手を差し出した。

「よこせ」

「ははっ!」急ぎ懐から書状を取り出し猪狩に差し出す。

開封し折り畳まれている書きつけを手際よく片手で払い伸ばすと、左手を添えながら読み進め、一読したのみで頭におさめると紙を丸めた。

「何が書かれておりましたので?」聞く片瀬を睨みつけながら……。

どうしたものか猪狩の手の中で、その書きつけが燃え上がった。

投げ捨てたそれは一気に燃え上がり、あっという間に灰になる。

それを土中にねじ込むかの如く踏みつけた。

二人がそれをの眼差しで見ていると、

「おぬしが知る必要はない!」

猪狩は右手を横に振り抜いた。

その手に短刀が握られているのに驚く片瀬の横で、浅井が……。

「ごふっ、ぶっ」何か痰がからんだように咳き込みながら突っ伏すと、倒れ伏した浅井の首から血溜りが広がり、暫し痙攣した後二度と動かなくなった。

「その小童とやらは、何も取らず立ち去ったと申すのだな?」

「はっ! 浅井を介抱せよ、とのみ言い残し立ち去りました!」

猪狩は己が周囲の気配を一瞬探り、特に異常がない事を確認した後、

「この者を土中に埋め込み、頭領様の元へ行き次の指図を仰ぐのだ」

「はっ! ははぁ!」を探しに駆け出した片瀬を見送りながら、

いかに手不足とはいえ、かような者どもを使わなくてはならぬとは……密書には開封の痕跡があった……浅井が盗み見たものか?

文の内容は普通の人間が見たところで、分かろう筈はないのである。

仔犬を連れた品良き小童……まさかとは思うが我らの正体を知り、探りを入れに参ったか? 

ならばなぜ片瀬をそのままに捨ておいたか? 恐らく通りすがりの只の旅の者と思うが、捨て置く訳にもいくまい。よく分からぬ禍根は絶ってしまうが……。

手っ取り早いのである。

ふらりと歩き出した猪狩の姿は、扶持を得られず流浪する、惨苦が滲み出る牢人の姿だった。

【前回の記事を読む】旅の途中、源五郎は氷川神社へ参拝。鳥居前町では多くの人々が行き交い、賑わっていた。

 

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