伊豆の御社(おやしろ)

いつの間にか人の屋敷の敷地内に迷い込んだボクは何か居心地が悪く、人に見つかったら咎められるような気がして足を速めた。急ぎ足で屋敷の脇を抜けると、やがて、木造りの立派な構えの門に辿り着いた。

門の扉は開いている。その門を早足で抜けるとコンクリートを荒く打っただけの狭い
私道に出た。私道は屋敷と下に見える農道を繋いでいる。細いあぜ道のような農道は舗装され、真っ直ぐに先へ先へと伸びている。

門をくぐって私道に出たところで何かに呼び止められた気がして振り返った。ふっと後ろを向いた瞬間、道の左手に小さな鳥居があることに気づいた。鳥居の奥には古い祠があって、中に何を祀ってあるのかはわからない。

立ち止まって目を凝らすボクの後ろを何かが行き過ぎた気がした。気配を感じて振り向いたが誰もいない。ふっと、また声をかけられた気がした。

それは

「よく来たね」

だったか、

「よく来れたね」

だったか、とにかくそんな意味のことだった。

声には威圧感があった。何かが背中から侵入して背筋をゾクッと這い上がるような恐怖心に駆られたボクは、追い立てられるようにその場を離れた。小走りに歩き、歩き出してからも何かが追いかけてくるような気がしてまた足を速めた。

私道に続く農道を少し歩くと、遠くに東海道線の高架橋が見えた。ここがどの辺りになるのかさっぱりわからない。振り返ると、今越えてきたと思しき小高い山が視野いっぱいに広がって大きな山に見えた。

辺りは一面の野菜畑で、向こうに見える線路の周りに住宅が立ち並んでいる。どこか見覚えのある光景だったが、家からは遠かった。距離的にも方向的にもボクの家からどうしたらその場所に出るのか、どう考えてもわからない。

ここが山の裏側から表側へ、あるいは、山の表側から裏側へ、つまり、一山越えただけで来られるところだとはどうしても思えなかったのだ。時間と空間の狭間を大急ぎで駆け抜けた気分だった。そう、時空をワープしたときの感覚だった。

こんな短い時間でずいぶん遠くまで、少し歩いただけで来るはずのないところまで来たと思い、狐に化かされたと思った。いや、昔の人が狐や狸に化かされるとは多分こういうことなのだろうと思い、何か、不思議な気分になった。

その日は遠い道のりを長い時間かけて歩いた。見慣れない場所から見慣れない道を辿って、家に着くころにはもう陽が傾いていた。見ると木造二階建ての新居は今朝出たときと同じように見える。

いつもと全く変わらないはずの風景は、しかし、日の沈んだ冷涼な空気の中で何かよそよそしく見えた。空の色、光の感覚、闇の深さ、空気の濃さとその匂い、空気の重さや時間の感覚が、心と身体に刻み込まれた記憶にあるそれとは少し違っている。何かが違うのだ。どこか作り物のようで居心地が悪い。世界がよそよそしくなったように感じる。

そんな不思議な気分は翌日か翌々日まで続き、しかし、二~三日経つとそれが当たり前になった。それは、それまでと変わりない暮らしに思えたが、何かが変わった。何がどう変わったのかを説明するのは難しい。

ボクには祠の前を通り過ぎたあの日から変わったと思えるあとの人生があるだけで、それと比較出来る人生はないのだから、つまり、漠と変わったとしか言えないのだ。

日々の生活、それは、例えば仕事とか、周りを取り囲む人々とか、それまで当たり前に過ごしていた日常に現実感がなくなり、どこか希薄になった。それ以前の記憶が遠く霞んで、何か、夢のように思える。そして、今まで体験したことのない世界がそれに変わった。

水化学の研究を生業(なりわい)としてきたボクは、しかし、その唯物的な考え方や物事の化学的解析に興味を失い、やがて、研究室を閉じた。仕事が変わると社会への係わり方が変わる。社会への係わり方が変わると人間関係が変わる。

過去の友人知人との関係は断絶し、頻繁に行き来していたその関係は過去の印象と朧気な記憶に置き換わり、記憶の中にだけ住む、不確かな何ものかに形を変えた。やがて、生活のスタイルは別人のものになり、生き方は真逆のものになった。ボクの日常は瞬く間に変容していった。

物質主義や拝金主義的な生き方に興味がなくなり、朝と夕のプラーナヤマ(呼吸法)が日々のルーティーンになり、日に二度のヨガ(アーサナ)がそれに加わった。精神世界に傾倒し、殺生を好まなくなり、食べ物は肉食から菜食になった。やがて、夕方の瞑想が日課となり、週に一度はグループ瞑想に参加するようになった。

結果、ボクの前半生と後半生は全く違うものになり、そして、二十年が経った。振り返ると、あの祠を通り過ぎたころを境にその前と後の記憶は断絶している。それ以前の記憶は遠く希薄で、何か、別の人生のように思える。

時々、ここが本当に元いた世界なのだろうかと考えることがある。狐に化かされたようだと思ったあのときの気持ちがふと蘇る。そう、時空をワープしたときのあの不思議な感覚はいつもボクの隣にいるのだ。

十年ほど前、あの祠に行ってみようと思ったことがある。もう一度あの祠の前に立ってみたいと思ったのだ。あの古い祠に祀られていたのは何だったのだろう。あの声はいったい誰だったのだろう。行けばわかることがあるような気がした。
 

【前回の記事を読む】ボクの家はさほど街中でもないし過疎の田舎でもない住宅街の一画にある。家を出てすぐの緩い坂道を上ると空気の澄んだ日には左手に三浦半島、右手に伊豆半島が淡い紫色のシルエットを浮かび上がらせる

 

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