むろん、生徒のみんなも。佐藤ゆかり先輩が引退したあと空席だったマネージャーも、すぐに希望者が殺到した。おそらくはほとんどが英児目当てだったろう。

その中で、もっとも熱心だった福田真紀さんがマネージャーになった。僕とは同じクラスで席も近く、太郎君、真紀さんと呼び合う間柄になった。

すでに地元で強豪チームとして認識され始めていた日吉南には、様々な練習試合の申し込みがあったが、相手の戦力分析は、真紀さんと僕の担当になった。

たとえば偵察などもそうだ。対戦が決まったチームが近場なら、電車でよく偵察に二人で出かけた。成績優秀でポイントをつくのがうまい真紀さんは、見事なメモをとった。僕はビデオ撮影係だった。

「いや、すごいね。野球にこんなに詳しいなんて。英児は目立つからとても偵察には連れてこられないけど、僕が一人で来てもきちんとメモがとれない」

「私、父が新聞社でスポーツ記者をやっているの。そのせいで、子供の頃からスポーツの話ばかり聞かされて、プロ野球の試合にもよく連れていってもらっていたの。だから、いつの間にか野球好きになってしまったってわけ」

「新聞記者って、すごいじゃないか。なかなかなれない仕事なんだろう」

「お父さんは大きな新聞社に入りたかったらしいけど、何社も入社試験に落ちて、地元の神奈川地域新聞に入社したって言っていた。でも、今、運動部のデスクっていう責任者になったの。すごく楽しそうに仕事しているわ」

そう、真紀さんの父親である福田武夫さん、福田記者がのちに「サイレントエース」の記事を書いてくれた方だ。

真紀さんの鋭い分析、そして僕が撮影した相手チームの練習風景のビデオは、日吉南のまたとない武器になった。関東大会後の練習試合でも、僕らは勝ち続けた。英児が投げない試合でも、3年生の武智さんが主将として、第二投手としてチームを引っ張った。

英児はむろん四番打者としてレフトを守り、補殺を何度も奪った。 そして、3年生が引退した後、坂本が武智さんのあとを受けて主将になった。誰もが納得する人選だった。

新チームでは、エースはもちろん英児、1番はセンターの松井、3番がショートで主将の坂本、4番が英児、5番がファーストの中島、僕は6番キャッチャーという打順になった。

チームは強くなっていたものの、しかし僕は徐々に自分に不満を感じ始めていた。打撃は徐々に上達していったものの、このままではただやっとボールをキャッチしているだけで、英児の足手まといになるばかりだ、そう思っていたのだ。

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