これから会いに行く相手は、俺の記憶の中の母親ではない。歳月が経った、ということを言っているのではない。歳月なんて関係ない。〈かあさん〉はある時点でワープして、べつの人間になった、俺はそう考えている。

親父にはまだ話していないが、お袋が戻ってくるまでに家を出るつもりでいる。王子駅の近くにもうアパートを見つけてある。

いっしょに住む予定の女が、今月から住み始めている。今日電車を四回も乗り継いでこの土地へやってきたのは、なんというか、そう、好奇心といったら一番近いかもしれない。

あの事件を扱った書物をすべて読んで――すべてといってもほんの四、五冊だが――俺の中にひとつの像(イメージ)が形づくられた。いつしかそれは、俺の記憶の中の母親よりも存在感を持つようになっていった。

その像と、これから会いに行く生身の人間とを比べてみたい。言わば検証作業のようなもので、それ以上でも以下でもない。

優子が急に立ち止まった。身体が左へ傾(かし)ぐ。片足にだけ重心を預けて、低くうめき声を洩らした。俺は咄嗟に後ろから妹の背中を支えた。「どうした?」と声をかけると、

親父が足を止めて振り返った。優子は右足の踵をぐいっと突き出して「攣(つ)っちゃったよ、攣っちゃったよ」と顔をしかめながら、腕をふくらはぎの方へ伸ばそうとする。もちろんお腹が邪魔をして届かない。

周囲には腰かけるところなどどこにもないから、親父と俺で優子の両脇を支え、道路の縁石にゆっくりと座らせた。優子の右足は突っ張らかったままだ。

親父が靴を脱がせ足首を持って、「こうか? こうか?」とゆっくりと動かす。「そんなことするとかえって痛いよ」などと憎まれ口を叩きながらも、妹は次第に落ち着いてきた。「ちょっと、お前、足を擦(さす)ってやれ」と親父は俺に言い、立ち上がってポケットから携帯を取り出した。

タクシーを呼ぶ親父の声を聞きながら、優子はついに両手で顔を覆った。

泣くのは向こうに着いてからだろ。早いんだよ、まだ。いい年しやがって。俺はパンパンに張ったふくらはぎを揉みしだきながら心の中で妹へ悪態をついた。

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