民百姓の暮らしのため、一日も早(はよ)う領内の再建にかからねばならぬ。それには肥後殿の如く、旧主に仕えて土地勘に長け、数多の民と交わってきた者、何よりも、あの地を愛する者の力が、何としてもほしいのじゃ」
「ははっ! 恐れ入りましてございます」
葛西大崎旧領は、奥州仕置ののち、元は明智光秀の家臣で、秀吉に気に入られ、取り立てられた木村吉清の所領となった。
ところが、所詮「他所者」に過ぎず、また五千石の小領主から急に三十万石の大名に成り上がった吉清は、民情把握も不十分なまま、苛烈な年貢取り立てや刀狩りなど、強引な施策を取り続けた結果、憤激した地侍や百姓らの蜂起、「葛西大崎一揆」を招いてしまった。
これにより木村吉清は改易となり、旧領は伊達政宗の所領となったが、田畑は戦乱や百姓衆の逃散(ちょうさん)などで、荒廃の極みにあったのである。
小十郎は続けた。
牢人取締令 天正一八年(一五九〇)以降、豊臣秀吉が発布した法令。奉公先も田畑も持たない武士(=牢人・浪人)を追放するよう命ずるもの。
「それにな、我が主人……殿は今、大変な苦難のさなかにおられる。葛西大崎一揆の処断を巡り、蒲生(がもう)飛騨守といざこざがあったばかりか、ご自害なされた前(さきの)関白様(豊臣秀次)とは親しく交わられた。
これらが仇となり、太閤殿下には常々謀反を疑われ、国へ帰ること許されず、ここ伏見から一歩も出られぬ『籠の鳥』。殿は一日も早う国元へ戻られ、御自らの手で国を建て直したいと願っておられるが、到底叶わぬことなのじゃ」
「左様でございましたか……」
「そればかりではない。殿や儂ともども、幼少のみぎりより虎哉(こさい)禅師の下でともに学んだ伊達安房守殿(伊達成実(しげざね))、茂庭左衛門殿(茂庭綱元(つなもと))が、殿とどうしても思うところが食い違い、我慢ならぬと出奔してしまった。
殿のお嘆きは止まることを知らぬ。いわば両腕をもがれたに等しい。さらには殿の叔父御の三河守様(国分盛重(こくぶんもりしげ))は佐竹家に、お母上様(保春院(ほしゅんいん))は最上家に去ってしまわれた。
ここだけの話、三河様は無能の極みであったが……。あれだけ殿をお支えなされたお母上様まで失(うしの)うては……。
せめて我が姉・喜多(きた)に蟄居(ちっきょ)を命じられることなく、傍近くに仕えさせておけばとも思うが……今申しても詮(せん)なきことだが」
【前回の記事を読む】浪人となった伊藤家は一家離散の憂き目に遭い、父と息子はただ二人、行く当てもなく…