三 錯誤

「そういえば今日は彼、どうしたの?」

藤島に聞かれて、私は隣の椅子へ目を向けた。前に来た時はしれっと座っていた悪魔の姿が今はない。

「ヤダ、いない方が普通よね。神野さんがしれっと連れてきてたものだから」

「……なんかすいません」

悪魔が売ってくれた二作目の刊行とほぼ同時、三作目の出版が決まった。今日はその校正と諸々の打ち合わせだから、彼が売り込む必要はないのである。

「あの子、名前は?」

「へ?」

「何度か会ってるのに知らないなと思って」

私も知らない。そもそも名前なんてあるのだろうか。

「そうですね、ナツメくん……とか?」      

「え?」             

名前がないから漱石って、ちょっと安直だったろうか。でも『吾輩は猫である』の冒頭がとっさに降りてきてしまったのだから仕方ない。

「あんな年下のイケメンよく捕まえたわよね。しかも結構続いてるでしょう」

藤島の年齢は知らないが私とそう変わらないように見える。だから尚更、あの超絶美形が隣に座る光景が信じられないのだろう。彼がいないこの機会に根掘り葉掘り聞くつもりらしい。

「実際、彼いくつなの?」

「さあ?」

百年でも二百年でも生きてそうだし、それ以前に「生きて」いるのかも分からないし。

「何してる子?」

「えっと……」

「もしかして仕事してないの? ヒモ?」

「ではないですよ。お金を要求されたことはないし」

どちらかというと「居候」という言葉の方がしっくりくる。突然転がり込んできたイケメンは、ただそこにいるだけで経費は一切掛からない。もはや都合のいい男だった。

「でしょうね。神野さんにヒモを養う経済力はまだないものね」

言ってくれる―と、突っ込もうとして気が付いた。

「まだ?」

「これから売れるでしょう。というか、私が売ってみせるわよ」彼女はさらりと言ってのけた。

悪魔が現れてから一番変わったのは藤島希枝の態度だろう。

それは単なる手のひら返しではなく、彼女自身が編集者として目覚めたような豹変ぶりだった。

少し前まで仕事ができるようには見えなかったのに、先程の打ち合わせでもより良い装丁のためにデザイナーを探していると得意げに語っていたのだ。もう驚くしかない。

「お金じゃないならよっぽど気が合うのか、身体が合うのか」

「ちょっと、やめてくださいよ」

「何恥ずかしがってるの? 元彼とのあれこれを晒しまくってる恋愛小説家が」

おっしゃる通りではあるのだが。

「彼とはそういうことはないので」

「は?」

キンと周囲に響き渡るような声音だった。ハッとした彼女は口元を押さえ、声を低くして尋ねる。

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