そこで、「錯覚としての我」の代用語として、錯覚によって無我の真実が見えていないことを意味する「無明」(迷い)を十二支縁起の一支分に位置づけたのだと思われます。

けれど、そのことが逆に十二支縁起の理解を困難にし、誤解を生じさせる原因になったかもしれません。

「老死」とは、「一人称の老死苦」のこと

ここでの老死とは、「老死苦」、「老いと死について苦悩すること」であります。十二支縁起では、「苦」という言葉が省略されているので誤解されやすいのですが、単なる生物としての「老いと死」ということではありません。

人は言葉を覚えると、やがて「死」という概念を意識する生き物であります。人は「死」を恐れていますが、恐れているのは「一般的な人の死」や「他人の死」ではありません。

人が恐れているのは、一人称の死、つまり「自分自身の死」なのです。たとえ他人が癌になっても自分は怖くありません。しかし、もしも自分が癌だと言われたら急に怖くなるのではないでしょうか。

人が恐れているのは、「自分というものに条件づけられた死」なのです。自分の老いと死は、「自分の思い通りにならないこと」だから苦なのです。

人は自分が老いて死ぬことを想像し、恐れ、苦悩します。自分(自我)という者が存在すると思っているからこそ、自分の老いと死を恐れ、苦悩するのです。

「自分が死ぬということの意味」が理解できず、死によって最終的に生きていることの意味がすべて失われてしまうのではないかと想像し、そのことを恐れています。昔から「意味の無い自分の死」というものを、人々は恐れているのです。

『ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。』(スッタニパータ 804)

『生まれたものどもは、死をのがれる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。』(スッタニパータ 575)

『熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。』(スッタニパータ 576)

『すべての者は暴力におびえ、すべての者は、死を恐れる。』(ダンマパダ 129)

人々は死を恐れています。死から遠ざかろうとしています。死すべき宿命にあるにもかかわらず

 

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