「笈の小文」は、元禄三年頃、京・近江に滞在していた時に執筆された。帰路の章はない。近江の弟子の乙訓に渡され、芭蕉没後十五年に、世に出て、往路のみで終わる。

万菊丸と名を変えて旅の同伴をした杜国は、元禄三年二月二十五日に急死した。知らせを受け、芭蕉は慟哭したと伝えられている。この時、「笈の小文」の往路を書き終え、後半に移ろうとした時であったか。

更科紀行

「笈の小文」の帰路、八月十一日、名古屋を出発、美濃、木曾路を経て八月下旬帰庵までの旅を「更科紀行」という。「更科の里」今の長野県更埴市。

謡曲「姥捨」などの伝説の地の月を見たいという昂りが、秋風が吹きすさぶように心をさわがせ、急き立てられる思いで、越人と、荷兮が付けてくれた奴僕と旅立ちしたものの、ふたりとも、万事しどろもどろで、それも旅の面白さとなった。

旅中知り合った坊さんが、こちらは作句に苦しむ様を勘違いして、気晴らしにと、自分の旅の中で経験した阿弥陀さまの御利益の話などをしてくれるが、詩情発想の妨げになって邪魔。

折しも、壁の割れ目から差し込む月の光に風雅の情たかぶり、「いでや月の主に酒振る舞はん」と、都の人では手も触れない無粋な蒔絵が書かれた大杯での酒宴となった。

あの中に蒔絵書きたし宿の月吹きとばす石はあさまの野分哉

四十一歳「野ざらし紀行」より、四十五歳「更科紀行」まで五年間、旅から旅をかさねた芭蕉は、四十六歳の春、念願の「おくのほそ道」の旅に出る。

「おくのほそ道」の旅

「おくのほそ道」は、芭蕉四十六歳の、元禄二年三月二十七日より、同年九月六日までの半年間、日本史・和歌に造詣の深い曽良を供に、憧れの西行法師没後五百周年、その足跡を追い、また古来多くの歌枕の舞台に立ってみたいという念願の、長途の旅である。

この旅のどこかで、生き倒れになるかもしれないし、それも本望と思っていた。しかし、長旅とはいえ半年で終わる旅、棲み家を人にゆずってしまう事は尋常ではない。旅の資金が理由でもない。

この時点で、芭蕉は、自分の生涯を漂泊の旅の中で終わりたいと心に決めた。棲み家を売ることは、退路を断つ思いの意思表示であったと推測する。

序章

草の戸も住替る代ぞひなの家

中七「住み替る代ぞ」の強さに、芭蕉は自らの退路を断ったようにみえる。人は、名声が高まるにつれ、堕落の匂いが強くなる。それを断ち切るように。

「おくのほそ道」を一言で言えば、「芭蕉の苦悩と脱皮」の紀行詩文である。

前半は従来の発想から脱し切れない 苦しみ。後半、突如開けた〝かるみ〟の展望である。この旅こそ、芭蕉自身が、自ら開いた蕉風俳諧の出発点と言える。

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