最初の嘆き

了解案はボツにされたものの、五月十二日頃に日本側から回答が届き、それに対する米国側の否定的な代替案も六月二十一日に出た。

そしてその翌日の六月二十二日、独ソ戦が勃発。古代外相のソ連抱き込み構想も一瞬の内に泡と消え、古代外相と九条首相の関係も冷え切り、ついに七月十八日の第三次九条内閣で古代氏は外相を更迭されてしまった。

丁度この時期、日米交渉の進め方に関する大使館側との意見のすり合わせをしたいと外務省本省から南野公使に一時帰朝命令が出た。すり合わせなら交渉責任者として我輩のご主人自身が帰朝したいと請訓したが日本側から拒絶されてしまった。

我輩のご主人は拒絶されたことには渋々了解はしたものの、その後古代外相に、「引き続き尽力はするが、何分にも素人で、なるべく早く退任するのが良いと思うので後任を早く決めて欲しい」とまで電報を打った。

更に同じ趣旨の電報を海軍省にも軍令部にも送るほど思い詰めていたようだ。その時の我輩のご主人の落胆ぶりは一通りではなく、嘆き節を肴に夜遅くまでバーボンのグラスが空になることは無かった。

我輩は主人が自信喪失に陥った時こそ助太刀するのが我輩の使命と、この時は殊の外張り切って、しかし慎重に議論を吹っ掛けながら深夜まで付き合った。

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