第一部 日本とアメリカ対立—

第二章 緊張の始まり

日米了解案

一方日本側の反応はどうだったのか?

政府と軍部は概ね前向きな反応だったと聞こえてきたが、本気度は分からなかった。

支那事変の解決の糸口をこの交渉に期待していたとはいえ、「国民の血を犠牲にして獲得した……」という明治期の思考から抜け出していない当時の日本の軍部が、「満州国の承認」は喜んだとしてもこの時点で「支那からの撤退」や「賠償なし」など第一次世界大戦後のベルサイユ会議以降に出てきた新しい考え方に前向きだったとはとても思えない。

では古代外相にボツにされた外務省はどうしたのだろうか。原案作成時点で多くが関与したと思われるが、ごみ箱行きとなった後、全ては藪の中に消えてしまった。

現地大使館の幹部に聞いても誰も知らないし、日本側から誰かが責任を取らされたという話も聞こえてこない。恐らく外相が反対表明した途端、口をつぐんだのだろう。

これで「外交のプロ」と言えるのだろうか? と一瞬思ったが、暫くして「いや待てよ。ひょっとすると、『これこそ外交のプロのやり方』かも知れない」と我輩の第六感が働いてきた。

それはこうだ。「この案は一見すると日米両国のペテン師が本来の外交ルートを無視して勝手に作成した案のように見える。しかし実は外務省本省の外交のプロもどっぷり浸かって大使館側と綿密に打ち合わせしてできた結果だ。

外務省も大使館にいる外交官たちも共に『駄目になった場合の責任逃れ』の隠れ蓑に原氏と川中氏の二人のペテン師を表に出して自らは陰に隠れて二人を操る。

何も知らない我輩のご主人には隠れ蓑さえ持たさず、素手で表に立たせて協議に参加させておけば、たとえこの案が潰されようとも叱責を受けるのは表に立った我輩のご主人唯一人。

外務省本省の外交のプロは尋問された時、『あれは大使と二人のペテン師が現地で仕組んだ案で、本省は誰も一切知らぬ、存ぜぬ』で押し通せる。